暗い森 ２
疲れきった体は、しかし眠ることを拒否していた。
膝を抱えたまま、少しづつ部屋が明るくなり、擦りガラス越しの日光が、壁を伝っていくのをただ、見守る。
そうしているうちに。
いつもの刑事が呼びに来て、ふらつく膝で立ち上がった玲二の顔を覗き込んだ。
「何だ、また暴れたのか」
伸びた前髪をかき上げられ、昨夜踏まれた額の傷に触れられた。
男たちは、外れた肩は嵌めていったが、さすがに傷までは隠しようもない。
ひく、と竦む体を一歩引くことで隠し。
「触られると痛いんですが」
嘘をつくと、自業自得だと怒鳴られた。
ああ、この刑事は知らないのだと。
そう思ったら、なんだか、どうでも良くなった。
「姉さん、事故に遭ったって」
迎えに来た姉は、まったくいつも通りに見えた。
それでも駆け寄って聞くと、百合子はいつも通りに玲二を叱った。
「私より自分の心配しなさい。また喧嘩騒ぎなんか起こして！」
鏡を見ていないからわからないが、額の傷は目立つのだろうか。
百合子も玲二の髪をかき上げ、まったくもう、と呟く。
「本当に申し訳ありません・・・ほら、玲二も謝って！」
「・・・どうも」
まったく、いつも通りのやりとりの後に、玲二は解放された。
いつも通り過ぎて、妙に現実感がない。
警察を出ると、私服姿の英治が待っていた。
そういえば、土曜日だったなと思う。
「玲二！・・・お前またこんな傷作って」
・・・さすがに、鏡が見たくなった。
警察署のトイレの鏡、割るんじゃなかった。
「何ともない」
それでも玲二は虚勢を張った。
張らなければ、このまま座り込んでしまいそうだった。
「ちょっと擦っただけだ」
触って確かめてみたいが、腕を上げれば袖から手首が出てしまう。
手錠の跡を見せたくないから、腕は上げたくない。
「玲二、自分で手当できる？」
百合子が玲二の顔をのぞき込んだ。
大きな瞳が、「心配」の一言を如実に表している。
「お姉ちゃん、これから仕事に行かなくちゃいけないから・・・」
「仕事って、昨日、事故にあったばかりだろ」
玲二が慌てて止めようとするが、百合子は心配する弟を宥めるように笑った。
「本当に何ともないのよ。でも相手の方がどうしてもって。病院も、検査をしてきただけ」
でも、その分仕事が終わっていないの、と彼女は言った。
「それなら、僕に任せてくださいよ」
後ろから、英治が玲二の肩に腕を回す。
びく、と、玲二の背がひきつったのは、幸い姉にはわからなかったようだ。
「玲二、お前・・・」
英治は小さく呟いてから、すぐに百合子に向かって笑う。
「ずっとこいつと付き合ってるんですから、手当てくらいできます」
「ごめんね、桐山君」
そう、英治に謝ってから。
百合子は、玲二にも。
「ごめんね、玲二」
「・・・うん」
それは、自分の台詞ではないのかと。
思ったけれども、言葉になることはなかった。
消毒液の匂いは、血の匂いよりも苦手だ。
つん、と鼻腔を刺して、少し、泣きたくなる。
「染みるだろ？」
「・・・少し」
彼の言う「染みる」は、自分の感じている液体の冷たさではないと、知っていながら玲二は答えた。
嘘ではない。
たぶん。
「絆創膏じゃ足りないから、ガーゼ貼っとくぞ」
「ああ、頼む」
ガーゼを貼ったテープが、閉じていた瞼にかかった。
瞬きをすると、「あ、ごめん」と、貼り直された。
「右手も」
ポケットに入れっぱなしだった右手も見咎められる。
「いや、こっちはいい」
拳よりも、手首の手錠跡を見つかるのが嫌だった。
英治の目がきつくなる。
しまったな、と玲二は思う。
「じゃ、シャツ脱げ玲二」
「・・・なんで」
「なんでじゃないだろ、わかってるんだぞ。背中にも傷、あるだろ」
英治の手が、血の付いたシャツにかかる。
近づいた体温と肌に擦れた生地に、きゅ、と歯を食いしばる。
「お前、さっき触ったらびくってしただろ。歩き方もおかしかったし。足も・・・なのか？」
膝に、英治の手が触れる。
どんな堪えても、肌が震えるのだけは止められない。
「お前、怪我してもいつも全然平気そうなのに。今日、凄く酷いんじゃないのか？」
さっきの姉に劣らない、心配そうな英治の瞳。
申し訳なく思うと共に、どうやって誤魔化そうかと、今、そればかりを考えている自分を、玲二は嫌悪した。
「大丈夫だ、たいしたことない。お前が急に抱きついてきたからびっくりしたんだ」
「あーのーな」
掴んだシャツを引っ張られた。
思わず、声が漏れそうになった。
英治の瞳は真剣だった。
まずい、と玲二は思った。
「何年お前といると思ってるんだ。・・・もういい。勝手に脱がすぞ」
「待て、やめ・・・！」
自分の体に、親しい相手に。
力の加減をすることは、玲二が生きていく上で、体に染み着くまで覚えなければならかなったことだ。
だから、とっさのことになれば、玲二は決して、英治には勝てない。
英治にしてみれば、玲二を床に組み伏せたのは、怪我を隠す友人にたいしての苛立ちと、普通にじゃれ合う感覚と。
その、両方からだったのだろう。
しかし、玲二に昨夜の陵辱を思い出させるには十分で。
そうして、隠しきれない傷を晒すにも、十分。
「あ・・・・っ」
漏れた声は、怯えた子供のようで、そのくせ、十分に甘さの乗ったものだった。
その上、掴まれた手首には、何かあったと推測するには十分の擦過傷。
「お前、この手・・・こっちもか！」
手首のほう、だけ、か。
ふ、と、安堵の息をつく。
安心している場合じゃないけれど。
「だから、たいしたことない」
「たいしたことだろ！子供に手錠かけて、こんな怪我させたんだ、僕の父に頼んで、警察の上層部に・・・」
「警察じゃない」
英治の誤解を解こうと、足りない言葉を紡いだのがまずかった。
「・・・・何があったんだ、玲二？」
英治は聡い。
そうして、頭がいい。
いつものように、喧嘩をして怪我をしただけだと、そういうことに、したいのに。
「どいて、くれないか？」
玲二はかすれた声を絞り出した。
「嫌だ」
英治は改めて玲二の腕を掴み。
その刺激に、玲二は熱の籠もった息を、悟られまいと小さく逃がした。
正直なところ。
昨日打たれた薬が、切れていないのだ。
玲二に掴まれた腕。
乗られた脚。
じっと、自分を見下ろす視線にさえ。
この、壊された体は。
感じて、しまうのだ。
「手当てするまで、どかない」
英治はそう言って、竦む玲二の体から、まず、シャツをはぎ取ろうとボタンを外した。
「やめろ、よ」
「嫌だって言ってるだろ」
シャツの生地が、肌を擦る。
乗り上がった英治の膝が、玲二の前に、触れた。
「・・・・っ！」
びくん、と、玲二の体が如実に跳ねた。
英治は驚いて手を離す。
それから。
何かを確かめるように、玲二の頬に、触れた。
ふるふると、肌が震えて。
喉の奥から、小さな喘ぎが、漏れた。
「・・・・・・・ぁ」
「何があったんだ、玲二」
英治の言葉は、先ほどと同じ疑問型をしていながら、既に答えを持っている響きだった。
玲二は観念して瞳を伏せる。
どうしてお前はそう、変なところで聡いんだ。
知られたくないのに。
姉さんと、英治にだけは、知られたくないのに。
「わかった、話す、から」
どいてくれ、と力なく答えると、英治は一度ためらって。
それから、ゆっくりと、玲二の上から膝を下ろした。