月と水 ６
残業から帰って部屋のドアを開けると、ベッドの上に兵部京介が転がっていた。
皆本はひとつため息をつき、ネクタイだけをゆるめると、とりあえずキッチンへ向かった。
子供たちは、自分たちの好むジュース類にしか興味を示さない。
キッチンの棚の一番奥に、ミネラルウォーターの小さなボトルが紛れ込んでいても、誰も気にする様子もない。
いや、約一名、気にしていないのか、気にしていないことにしてくれているのか怪しいのもいるはいるのだが。
それを自分が詮索するのはマナーに反するのだと、高レベルの接触感応能力者との付き合いの多い皆本は、いつの間にか知っていた。
カーテンの閉められない窓から差し込む月の光に、青く光るボトルを取って、部屋へと戻る。
ドアを開けると、寝ているとばかり思っていた兵部が、視線だけを上げてこちらを見ていた。
ドアの隙間から漏れたかすかな月の光に、幼げな瞳が青白く光っている。
「怪我は」
「塞がってる」
ドアを閉めれば、それはいつもの闇の色。
なんとなくほっとしかけ、しかしその言葉の意味に気づいて、皆本は眉間に皺を寄せた。
怪我自体はしているのか。
しかも、闇にも白い指が、学ランの胸に食い込んでいる。
「薬は」
「ないよ」
聞けば、短すぎる答えが返った。
ないのか。
そうか。
持って来なかったのか、飲み切ってしまったのか。
そんなことはもう、あまり関係がない。
皆本は、兵部の頬にミネラルウォーターのボトルをぶつけてから。
文句を言いながらむくりと起きあがった彼に、机の引き出しから出した、小さな袋を投げて寄越した。
「・・・なんで、薬」
袋の中身を手のひらに落とした兵部は、その、錠剤の入ったシートに目を丸くした。
３種類あるそれは、兵部の常用薬だったのだ。
「お前んとこのボス代理にメールしたんだよ」
「何やってんだ、あいつ」
前に兵部が言っていたように、それは市販薬ではなかったから、薬自体を送ってもらった。
そこまで言ったら、たぶんあの敵ながら気の毒になるくらい苦労症のボス代理が、もっと気の毒な目に遭いそうなのでやめておく。
この薬がここにあれば、こいつが部屋に来る頻度も上がってしまうことに関しては、皆本は考えないようにした。
「それと、これはその薬と飲み併せても平気なはずだ」
そう言って、こちらは市販の錠剤を差し出す。
それでも、医師の処方箋がないと手には入らないそれは、賢木に頼んで処方してもらったものだ。
事情も話していないのに、文句を言いつつ薬を探して出してくれた親友には、頭が下がる。
「炎症止め。痛み止めは相性が悪くなくて効きそうなのがのが手に入らなかった」
なんてもん飲んでんだよ、というセリフは飲み込んだ。
言っても意味がないからだ。
炎症止めは、生体コントロールを持っている兵部には必要がないかと思ったが、大人しく受け取ったところを見ると、それに割く力が惜しい状態なのだろう。
兵部は、シートの錠剤を片端から押しだし、それを口に放り込んだ。
ボトルを開ける指が、夜目にも震えているのが見えて、開けてやればよかったと思ってから、それを打ち消す。
そこまでしてしまうのは、お互いのためによくない気がした。
「飲んだらさっさと寝ろよ」
「起こしたのは君だ」
「自分の部屋に帰ってきただけだろ・・・」
闇色に沈む水をたぷんと枕元に置いて、兵部はそのまま丸くなった。
パジャマに着替えた皆本も、少し躊躇ってから、兵部が抱え込んだ毛布を半分奪い返してベッドに寝転がる。
ごくごく普通のシングルベッドだ。自然、体は密着して。
感じたぬくもりに安堵させられて、少し思い切って兵部の方を向いた皆本の鼻先を、銀色の髪がくすぐった。
「なんかお前、いい匂いするな」
「変態」
思わず漏れた声に、すかさず突っ込みが入った。
「なんで変態なんだよ・・・風呂入ったのか？」
「そんな元気あったら来ない」
「ああ、そうか」
今、こちらの風呂場を使っているのはティムとバレットだけだから、誤魔化して風呂を使うくらい、こいつには朝飯前なのだろうが。
そう思ったところで、皆本はうっかり、学ランの下の兵部の体を想像してしまった。
いつか見た、月の光を浴びて青白く光る喉が、水を飲み下す淫美な動きを。
濡れてうっすらと光る唇が、ふわりと笑んだ瞬間を。
あ、まずい。
ただでさえ嗅覚は、動物の本能に直結してる感覚だっていうのに。
「・・・皆本君」
兵部の声が白々としている。
「変態」
ほぼ密着してしまっていた兵部の尻に当たったそれは、確かに堅くなっていた。
「勘弁しろ・・・」
皆本が呻くと、とたんに兵部の声が楽しそうに跳ねた。
「抜いてやろっか」
「やめてくれ。頼むから」
本当に頼む。
あと、尻を意図的に動かすのもできればやめて欲しい。
「じゃあどうすんだよ」
「どうもしないよ」
兵部がやっと、少しだけ体を離してくれたのを、少し惜しみながらほっとして。
しかし、首をひねって振り向いた兵部の、闇色に沈んだ瞳にのぞき込まれ、心臓をどくりと跳ねさせて。
それでも皆本は、努めて冷静な声を出した。
内心の動揺など、兵部には見え見えなのだろうけれど。
「そんな元気あったら来ないんだろ？寝てろ」
それを聞いた兵部は、もぞりと寝返りを打って、皆本の方を向いた。
「・・・皆本君」
「なんだよ」
闇の中の闇色の瞳は、闇夜のコップの水のようだ。
闇に沈んでいるといるというのに、不意に揺れては、確かな存在を主張する。
「朝ご飯」
兵部らしい図々しい要求は、しかし料理を趣味とする者には、なんだかんだで嬉しいもので。
「ああ、作っとくよ」
その答えに潜んだ喜色に、兵部はむしろ、少しだけむっとした。
まったく、もう、本当に。
こいつは、どこまでお人好しなのか。
ここまで来といて手を出さないとか、本当に。
「目玉焼きは・・・完熟がいいな・・・・」
それでも、元々の疲れと効いてきた薬と、側にぬくもりのある安心感に、それ以上起きているのもしんどくて。
「わかった。縁はカリカリな」
「・・・ん」
十分に満足のいく答えに、許してやることに、した。