月と水 ５
残業から帰って部屋のドアを開けると、ベッドの上に兵部京介が転がっていた。
とうとうこっちかよ、と皆本は思ったが、移動する手間が省けただけかと思い直す。
部屋を分けても、結局チルドレンの３人は勝手にこの部屋に入って来るし、ティムとバレットは夜型だ。まだ起きている可能性が高い。
「おい、きょ・・・兵部」
呼びかけても、答えはない。
皆本は、なんとも言えない不安に襲われて、ほの白い顔をのぞき込んだ。
制服の胸の真ん中に、鉄棒を生やした姿を見たのはつい先日だ。
不安に思っても仕方がない。
しかし、薄く開いた唇から、ちいさく吐息が漏れているのがわかって。
ほっとして、ため息をつく。
それから、ほっとした自分に気がついて、もうひとつため息をついた。
まったく、どうしてこうなった。
こいつを、ただのロリコン犯罪者ジジイだと思っていれば、こんな心配なぞせずに済んだものを。
しかし、心配性は自分の性分なのだと思い直し、顔を離してネクタイを取る。
こいつを起こしても面倒だ。
このまま寝かせておこう。
そう思って、できるだけ気配を消してパジャマに着替え、それから布団に潜り込もうとして。
ふと思い立ち、皆本はキッチンへ向かった。
冷えていなくていいだろう。
すぐに飲むわけではないのだから。
そう思って、子供たちの炭酸飲料などをストックしている棚から、水の500mlボトルを選び出す。
不経済なので、水は大きなボトルでしか買わないが、これはバベルの防災用備蓄の、消費期限切れの近いものを無理矢理引き取らされた残りだった。
バベル印は気に食わないだろうが、子供じゃないんだから必要だったら飲むだろう。
・・・子供じゃないんだから。
子供以上に子供っぽいジジイの、一心に眠りを貪るその顔を思い出し、沸き上がった何かを散らすように、皆本はそのボトルを軽く揺らした。
部屋に差し込む月光をわずかに吸って、青を湛えた液体がたぷんと揺れる。
そのとき、皆本の部屋のドアが、ギイ、と開いた。
皆本の心臓が、どくんと跳ね上がる。
「ああ、やっぱり帰ってたんじゃん」
見れば、闇を切り取ったような学ランの男が、ドアノブに半ば寄りかかるようにしてこちらをのぞき込んでいた。
「・・・出て来んなよ。子供たちが水でも飲みに来てたらどうするつもりだったんだ」
「いや、普通に挨拶したけど」
「すんな。つか、来んな！」
やっといつものセリフが言えた頃にも、まだ皆本の心臓は、無駄に跳ねたままだった。
ぞっとしたのだ。
突然開いたドアに、びっくりもしたのだが、何よりドアの向こうに立つ、黒い影にぞっとしたのだ。
それは、まるで。
彼のよく言う、【亡霊】そのもので。
それが、既に見慣れたただの若作りジジイだと、頭で理解するより早く、感情の方が恐怖した。
「あー、水」
しかし、そんな皆本の心中など知らぬ気に、兵部は寝ぼけた声を出す。
「くれ」
その言いように、皆本の心臓は、やっといつもの対兵部状態になった。
つまり、怒りでいつもより、ほんの少し鼓動が早い程度に。
「ください、じゃないのか」
「くれ」
「お前は・・・」
それでも、のろのろと部屋から出てきた兵部の足取りはおぼつかない。
仕方がないのでボトルを渡してやると、それを目の前に持ってきて、兵部は嫌な顔をした。
「何だよこれ、バベル印じゃん」
「嫌なら飲むなよ」
「皆本君、性格悪ーい」
言いながらも、兵部はのそのそと歩きながらペットボトルのキャップをひねった。
たぷん、と、月影色の水が揺れる。
足に力が入らないのか、そのままぺたんとソファに座り込む兵部は、しかし今日は怪我の気配はなかった。
ただただ、調子が悪そうなだけだ。
「薬は」
「飲んじまった」
短すぎるその答えの意味を、『手持ちは全て飲んでしまった』のだと、正確に理解して。
「予備くらい持って歩けよ」
そう答えると、白い喉を夜に晒して、とくとくと青い水を減らしていた兵部は、その中身を半分ほど残して濡れた口を拭い。
「んないっぱい持って歩けないだろ」
そう文句をつけながら、きゅっ、と蓋をしたボトルを腹のあたりに抱え込むようにして。
それから、闇色の瞳でひょいと皆本を見上げた。
「皆本君」
そうして、両手を差し出して。
「運んで」
「なんで！？」
突っ込みは存外大きな声になって、慌てて口を噤む。
「お前水になんか入れただろ。腰抜けて立てねえ」
思わぬ濡れ衣は、しかし本気ではないのが軽い口調から透けて見えていた。
「入れる訳ないだろ」
しかし、立てないというのは本当だろう。
皆本の眉間に皺が寄る。
「うーん、男の部屋で腰抜けたの久々だなぁ」
「下品な冗談はやめろ！」
兵部の態度に慣れてきた皆本でも、さすがにこれには声を荒げた。
人聞きが悪すぎる。
こんな、見た目子供の変態ジジイに、一体何をするというのだ。
「ああ、この意味はわかるんだ」
「お前は僕を何だと思ってるんだよ・・・」
仕方なしに、学ランに包まれた体を抱き上げる。
既にに知っている重みとにぬくもりは、皆本を、なんだかひどく安心させて。
伸ばされた腕は、当たり前のように皆本の首に絡んだ。
「僕が誘っても、何にもしてこない朴念仁」
耳元で囁かれた声は、とろりと甘く。
認めたくなかった兵部への欲を、皆本の目の前に引きずり出して来たけれど。
「誰が、するかよ」
そう答えると、兵部はそのまま、こてんと銀色の頭を皆本の肩に預けた。
「そう」
そのままベッドに運び込むわずかな間に。
兵部は皆本の腕の中で、少し苦しげな寝息を立てていた。
もう、一緒のベッドでは眠れないと思っていた皆本は、しかし、その体のあたたかさをもう少し感じていないと、さっき見た【亡霊】が夢に出てきそうな気がしたので。
いつものように、同じベッドに潜り込んで、眠った。