月と水 ７
残業から帰って部屋のドアを開けると、ベッドの上に兵部京介が転がっていた。
皆本はひとつため息をつくと、キッチンへと向かった。
もう、幾度も繰り返した夜だ。
今更、驚くことでもない。
奥まったキッチンでグラスに水を注ぐと、それは窓から差し込む月の光に、綺麗な青に輝いた。
どこか不思議に思いながら、それを一息に飲み干すと、はふ、と大きく息が漏れた。
忙わしない毎日は、それでも淡々と過ぎていく。
今日と変わらぬ明日の中で、それでも彼の大事な子供たちは、気づかぬうちに大きくなって。
「僕も、おっさんになる訳だよなぁ」
思わずそう呟いたところで、ギイ、と自室のドアが開いた。
この瞬間は、何度味わっても、心臓が竦む。
黒い服に、白い貌。
そこにいるのが、眠たげに目を擦った兵部だとわかってはいても、闇から現れる亡霊のイメージは、皆本の中から、なかなか消えてはくれない。
しかし、その白い手に薬の小袋が握られていることに気がついて、皆本はすぐに、彼から『おばはんくさい』と罵倒される、リアリストの顔を取り戻した。
「薬飲むのか」
「ん」
そう幼げに頷いて、兵部はのたのたと、月夜の青に満たされた部屋に入ってくる。
その兵部に渡すために、今、自分が使ったグラスに水を注いだ皆本は、そのとき何も考えていなかった。
月の光に青く揺れるそれを、ソファに座り込んだ兵部に差し出して。
そうして。
「・・・わー、間接キスだー」
平坦な声にそう言われ、自分がごく自然に、使ったばかりのコップを差し出してしまったことに気が付いた。
「え、あ」
自分がこれを使っていたとき、まだこいつは向こうの部屋にいたはずだ。
しかし、ここでわざわざサイコメトリーする意味がない。
・・・いや。
口を付けた跡くらい、普通にわかるか・・・
一瞬陥ったパニックを、それでもすぐに収拾して。
「贅沢言うな。人んち勝手に上がり込んでおいて」
文句を言いながら引っ込めようとしたそれを、しかし兵部は軽い仕草でひったくった。
たぷん、と、グラスの縁ギリギリまで、月夜に染まった水が跳ねる。
「いいから寄越せよ」
そうして彼は、ざらりと出した薬の山を、小さな口に押し込んで。
そうして、くい、とグラスを呷った。
青い月影を、こくこくと嚥下していく白い喉。
ごく、と、皆本の喉も、鳴った。
「・・・お前さあ」
空になった冷たいグラスを、皆本の手に押しつけて。
兵部は、仰のいて皆本を見上げながら、呆れたような声を出す。
晒された白い喉が、綺麗だ。
「欲情してんなら、すればいいじゃん」
さらりと揺れた銀色の髪が、月の光に青くひかる。
白い額にかいま見えた傷跡から、皆本はそっと目をそらした。
「お前と一緒にするな」
「一緒だろ」
そう言い返した兵部の、月の光の届かない、深い闇の瞳には。
それでも確かに、なにがしかの色があった。
それが、自分と同じものだと、皆本には、とても思えなかったのだけれど。
それでも。
いつかのように、伸ばされた腕を取り、抱き上げたその体は。
確かに、皆本と同じ熱が灯っていた。
明かりを点けない寝室で、それでも、遮光カーテン越しの微かな月の残骸に、兵部の体は薄青白く光って見えた。
その白さに口付けると、滑らかな感触に離し難くなる。
「っふ・・・ぅ」
その体のあちこちに口付けているうちに、兵部が声を漏らす場所が。
兵部の感じる場所が、だんだんとわかってくる。
シーツの上で、白い腰が揺らめいた。
見れば、未だ幼さを残したものが、ゆるりと立ち上がりかけていた。
「気持ちいいのか？」
聞くと、ぽかりと頭を叩かれた。
視線を上げれば、闇の中の闇色の瞳に。
浮かんだ水が、ゆらゆら光って綺麗だった。
「野暮なこと聞くんじゃない」
「気持ちいいのか」
「だから」
「うんごめん」
軽く謝り、銀の髪に指を潜らせて。
それだけで、罵倒の言葉をため息に変えた唇へ、口付ける。
「んっ・・・・ふ」
すすり込んだ唾液は甘く温く。
しかし、どこか静謐な水の味がした。
皆本の背に、兵部の腕が回る。
見かけ以上に細い指が、もがくように、縋るように背を掻く感触に、雄の欲をかき立てられる。
「・・・へったくそ」
唾液の糸を引いて離れた唇が、甘い声音でそう囁いた。
甘い言葉を囁かれるよりも、欲情する。
「悪かったな」
そう答えると、兵部の体がひくんとおののいた。
どうやら、相手も同じらしいと、悟る。
「こっち、もう触っていいか？」
「ていうかさっさとしろ・・・」
兵部の語尾がもごもごとくぐもったのは、腕を上げて顔を覆ったからだ。
そんな細い腕、乗せたところで何が隠れる訳でもないのに。
「ああ」
投げ出された白い足を、膝を掴んで持ち上げる。
知識の上では、その内側の骨格までも知っている人間の体というものが、こうして自分を受け入れるかたちに開かれていると言うだけで、こんなにも不思議で、美しいものに見えるのは何故だろう。
そう思ったところで、白い腕の向こうから、ひたひたと濡れた闇色の瞳がこちらに向けられていることに気が付いた。
いつまで経っても目を奪われる、深淵の闇。
そうか、これは。
兵部だから、か。
「んっ・・・」
体の中にまで触れれば、その熱さに驚いた。
しきりに誘って来るのだから、相当慣れているのだろうと思っていたそこは、しかし意外なほど狭く、皆本の指を締め付ける。
その狭さと熱さに、興奮する自分がいる。
その事実を、皆本は意外なほど、あっさりと受け止めた。
亡霊ではない。生きている兵部が、ここにいるということ。
その事実を実感できるのだから、仕方がない。
狭いそこも、それでもしつこく慣らせばおずおずと口を開いて見せた。
「あ、んっ・・・・」
体内の指を味わうように腰を揺らしていた兵部が、切羽詰まった声を上げた。
とろりと濡れた闇色の瞳に、言葉ではなくねだられるのは、あからさまな誘いよりも、よっぽどクるものだった。
「入れるよ」
白い脚を抱え上げる。
熱くぬかるんだそこへ、自分の欲を押し当てる。
皆本を十分に誘った瞳が、その役目を終え、ゆるりと伏せられるのを見計らって。
繋がる。
「は、ぁ、ああ・・・っ」
「・・・っ！」
白い体が跳ねるのは、目にも心地良い刺激だった。
掴んだ脚は力なくのたうち、そのくせ内側は、きつくきつく皆本を締め付けた。
兵部の体は、どこもかしこも水に浮かぶ月のように頼りなくて。
それでも、確かな熱で、皆本を受け止めて、乱れた。
「皆本君、変態」
「誘ったのお前だろ」
悪態にすぐさま突っ込んだ声は、それでもひどく柔らかかった。
「ばーかばーか」
「お前な・・・」
呆れたような。
諦めるような。
・・・甘やかすような。
そんな声になんだかムカついて。
分け合って飲んでいた水のボトルを放り出し、背中を預けていた男の喉元に強く頭を突っ込むと、ぐえっ、と間抜けな声が上がった。
それで十分に溜飲が下がり、笑いながら兵部は言った。
「あんま騒ぐなよ、子供たちが起きる」
「お前があんな声出してたって起きて来な・・・ふぎゃっ」
下品な返事に、もう一度突っ込む。
何度も食らうこいつが面白すぎる。
「・・・いいから寝ろよ。寝に来たんだろ」
繰り返し攻撃された喉をさすっていた手のひらが、ぽふ、と頭の上に乗った。
その感触に目を細める。
ちらりと見上げた眼鏡越しの瞳は、水底から見上げる遠い月に似ていた。
遠いように見えて、水面できらきらひかるそれには、きっとすぐに手が届く。
「誰かさんのせいで、興奮して眠れない」
「だから、お前のせいだろ」
その手にベッドに転がされ。
抱き込まれると、一気に眠気が襲ってきた。
手を伸ばしても届かない、遠い遠い月に焦がれている。
「ホントに、なんでこの変態が女王に・・・」
その気持ちを打ち消さず、交わらす。
それでも、胸を満たすこれは何だろう。
それに答えを見出さないまま。
兵部は、柔らかな眠りに身を任せた。
腕の中で、すうすうと寝息を立てる銀色の頭に、皆本はそっと、口付けた。
抱いた体温以上にあたたかいものが、胸の中に満ちていく。
もう、部屋から現れる兵部に、亡霊を連想することはないだろう。
たぶんまた、残業から帰ると兵部の姿は消えていて。
たぶんまた、残業から帰ると、兵部はそこに転がっている。
彼を心配しながら水を差し出すと、彼は、悪態をつきながらそれを飲み干して。
そうして、一緒に眠る。
それが、いつまでも続けばいいと思った。
それが、幸せというものかも知れないと、思った。
厚いカーテンの向こう側で。
今夜も、月は皓々と輝いていた。