永泉の甘い血を思い出す。

他に、することもないからだ。

肉を裂く感触を反芻し、口の中が唾液でいっぱいになってしまったことに気づく。

ずいぶんと、酷く壊れたものだった。

あの後。

泰明から引き剥がされた永泉は運び出され、泰明はそのままこの部屋へ閉じ込められた。

永泉の血の付いた狩衣は着替えたくなかったが、師匠に言われて仕方なく替えた。

壊れた式神など、さっさと土に戻してしまえば良いのだが、師匠はきっと、手間暇かけて作り出したこの器が惜しいのだろう。

もうひとつ、師匠の陰の気から造られた精髄があることは知っている。

それと入れ替えるつもりなのだ。

永泉の柔らかな体を思い出す。

自分の背に回された、腕のあたたかさを。

酷いことをしてしまった。

しかし、壊れた式と気づかずに、ついてきたあれにも落ち度はある。

飲み込んだ血肉を思い出し、また、唾を飲む。

肩から胸にかけてを噛んだ。

出血が多かった。その上噛み傷は腐りやすい。

命に別状はないだろうか？

命は助かったとしても、左手の動きに支障は出ないだろうか？

笛を吹くことはできるのだろうか？

そのうち、精髄を入れ替えに師匠が来る。その時に聞いておこう。

聞いたからといって、どうなるわけでもないが、知りたいと思った。

知って、すぐに消えるのだけれど。

そう思って、目を閉じたときだった。

「・・・泰明殿？」

細い声と、細い光。

薄暗い部屋に。

「・・・・・」

驚いた。

「あの、ご迷惑でしょうが、どうしても、その、お会いしたくて・・・・」

白い布で、左手が吊られている。肩の筋肉をずいぶんと削いでしまったのだろう。

いつもよりずっと、上目づかいで、いつもよりずっと、小さな声だった。

「左手は、動くのか？」

久しぶりに出した声は、情けなくかすれていた。

「はい・・・あの、もと通りに動くようになるそうです・・・」

「そうか」

良かった。

細いからだが、部屋の中へ滑り込む。

その後ろに、頼久の姿が見えた。

「永泉様・・・」

咎める声に首をかしげ、泰明を伺って、永泉はおどおどと口を開く。

「頼久を上げてもよろしいでしょうか」

「それが良い。私は何をするかわからぬ」

「ありがとうございます・・・」

音を立てぬ男が後ろに控える。

それを一度だけ振り返ってから、永泉は部屋の奥に座り込んだままの泰明の、すぐ側までいざり寄った。

頼久の腰が上がる。

「大丈夫です、頼久」

「・・・しかし」

「大丈夫です」

そう言う永泉は、先日されたことなど覚えていないかのように、泰明の側に腰を下ろす。

話をするには、不自然なほど側に。

そうして。

甘い匂いが、したと思った。見ると、永泉の口の端が切れて、わずかだが血がにじんでいる。

そして永泉は、その唇を泰明の口元に押し付けた。

「ん・・・」

永泉の血は、やはり甘かった。

血を薄める唾液も、意外と旨い。

その血と唾液を、一生懸命泰明の口腔へ送り込んでいる舌に歯が触れる。

肉を食む感触を思い出すが、これを噛んでしまえば、永泉の命はない。

食べたいけれども、我慢する。

それでも往生際悪く、力を抜いて、柔らかく、噛む。

永泉が大人しく噛まれていることに気を良くし、薄く血の付いた唇も、じっくり舐めた後でまた噛む。血の味が少し濃くなって、慌てて離す。

くち・・・と、濡れた音を立てて唇が離れ、間に引いた光る糸を、惜しむ思いで舐め取った。

「泰明殿・・・」

濡れた唇が、泰明の耳にやっと届くような声でささやく。

「あの、お願いがあるのです・・・」

「なんだ」

今の自分に、できることなどあるのだろうか。

「私の、その、恋人になってはいただけないでしょうか？」

また、驚いた。

恋人？

「あの、その・・・不躾なお願いだと、わかっているのですが・・・」

「私は、おまえを食らおうとしたのだぞ」

「はい・・・」

「その上、もうすぐ処分される。人を傷つける式など、師匠がいくら物好きでも飼ってはおかぬ」

「そのようなことはさせません！」

それは、先日聞いた、つよい声だった。

震えた、硬い声だった。

自分を見上げる瞳は藍。それが、瞬いて雫をこぼす。

「お願いです・・・泰明殿・・・・」

舐め取ったそれはあたたかく、血よりもからい味がした。

「わかった」

この涙の代償に、そのくらいの願いは叶えてやろうと思った。

永泉の真意どころか、言葉の意味さえ理解できていない泰明は、そのとき、本当にそれ以外の何も考えてはいなかった。

本当に、何も。