「やめてください」

永泉は言った。

震えた、硬い声。

泰明の袖を掴んだ、指も震えて。

「そのようなこと・・・お、仰らないでください」

「永泉？」

その声のつよさに、泰明は呆然と、側にある藍色の頭を見下ろした。

それは、大内裏での出来事だった。

偶然会った永泉に、帝に関わる占いの結果とその対策、ちょっとした連絡事項を伝えていた泰明は、そのまま永泉と共にいた貴族に絡まれたのだ。

曰く、『このような下賎な輩と付き合うことは、永泉様の品格を貶めますよ』

曰く、『陰陽師に、獣の臓物から造られたという噂は、真か？』

曰く、『人でないものが内裏に上がるなど、やはり帝の徳が足りないのだ』

等々。

それは、いつものことだった。

ただ、自分がこのように近づくと、永泉が迷惑を被るらしいということは、その寄せられた眉から察せられたので、これから気をつけた方がいいと思った。

永泉の力は、感情に激しく左右されるから。

これは、力の制御(コントロール)が自分で出来ないから、自分がある程度使ってやらなければならないのだ。

そんなことを考えていると。

永泉が、らしくない大きな声で、騒ぎ立てる貴族を咎めたのだ。

「お前のようなものと付き合うから、永泉様がこのように柄が悪くなってしまわれるのだ」

「そうだ、さっさと立ち去るが良い」

「はい。行きましょう、泰明殿」

「永泉様・・・！？」

泰明の手を引く永泉の力は、思ったよりも頼りないものだったが、泰明は大人しくそれに従った。

初めて触れた人の手のひらは、柔らかくてあたたかくて、不思議な心地がした。

「申し訳ありません・・・もうしわけ・・・・・・」

ぐすん、ひっく。

泰明の手を握り締めたまま、永泉はしゃくりあげる。

それでも足を止めずに、泰明のあとをついてくる。

待賢門を出たところで、手を引くものと引かれるものは逆転していた。

どうやら、じっとこらえていたらしい永泉が、泣きじゃくりはじめたからだ。

「私が、不甲斐ないばかりに、泰明殿に、ご不快な思いを・・・・」

「私が師匠に造られたものであることは事実だ。帝の徳がどうこうというのは唯の中傷だ。おまえが不甲斐ないこととは関係がない」

「でも・・・」

「ついでだ。気を静める符を作ってやる」

泰明の住む安倍晴明邸は、内裏のすぐ裏手にある。ぐずぐず言っているうちに、その目の前まで来ていた。

「おまえは気を乱しすぎる。気を静めなければ、いかに強い気を持っていようと、使えぬ。おまえはそこを反省すべきだ」

「はい・・・っく」

手を引かれてついた部屋は、泰明のものなのか。薄暗い部屋の隅に、文机と書が積んであるばかりのその部屋は、円座ひとつない。

「気を、乱すなと言っている」

「っく・・・ぅ」

苛々する。

おそらく、自分よりも大きな霊力を持っている永泉。

泰明の知らぬ、感情や肉親の情に振り回され、それを満足に振るうことのできない永泉。

何故、おまえはここで泣いていなければならない。

事実を正確に把握し、適切な判断さえ行えば、自分などよりもよほど京の役に立つものを。

「でも、あのようなことを言われて、泰明殿・・・・・」

「あのような言葉に何の意味がある。ごく弱い穢れだ。放っておいても害はない」

「そ、そうではないのです・・・・」

苛々する。

苛立ちは、何も生み出さない。

わかっているから、自分を苛立たせる永泉に、更に苛立ちが募る。

「気を乱すなと言っている！！」

叫んだ自分に驚いた。

びくんと竦んだ永泉が、小さく詫びの言葉を呟いたのを、どこか遠くに聞く。

震える肩をつかむ。

そのまま柱に叩きつける。

唇から洩れた声と、柔らかな肩の感触に苛立ちが増す。

泣き腫らされた瞳が閉じられて、かくんとつかんだ肩が落ちた。

膝がくだけたのだ、とわかっているはずなのに、逃げようとした、と思った。

逃げられぬように肩をつかみなおす。少し失敗して指が僧衣を引っ掛け、白い肩があらわになる。今度は間違いのないように、しっかりと、左腕の付け根をつかまえる。

自分に左手があることを思い出し、もう片方の肩もつかまえる。

自分の下で、大人しくなった永泉。

それでも、苛立ちは収まらない。収まるどころか、更に増して正常な思考を奪う。

この、体が悪いのだ。

そう、泰明は思った。

強い力を内包し、しかしそれを無駄にする、この柔らかな体が悪いのだ。

さらされた白い肌が目に痛い。

これが、無ければ。

そうすることに、ためらいはなかった。

自分の歯が、肌を突き破る感触はたまらなかった。続いて肉を裂く歯ごたえも。

甘く、わずかに塩辛い液体が口腔を満たす。それを夢中ですする。

つかんだ腕が、ひくひくと震える。間近で、押し殺した苦鳴が聞こえる。

もう一度、歯ごたえを感じたくて、角度を変えて牙を埋める。

新たに溢れた血液が、乾いた喉を潤す。

強張った体を腕の中に閉じ込め、体全部が自分の行為に反応する様を楽しむ。

永泉の右腕が柔らかく自分の背にまわり、更に泰明を喜ばせる。

何度も何度も噛みなおすと、甘い血と共に裂けた肉片が喉へ滑り込んだ。

旨い。

もっと、もっと・・・・

「泰明！」

創造主の声に硬直した泰明は、いとも簡単に暖かな体から引き剥がされた。

ぬるい液体が顎をつたう。

永泉の右手が空を舞うのは、何か、夢のようだった。

全部が全部、夢のようだった。

造られてこのかた、夢など、見たこともなかったが。