ちち・しり・ふともも １
きっかけは、ほんの些細な、そうしてバカみたいなことだった。
脱出不能と言われている独房から、至極簡単に抜け出して、「やっほー」などと簡単な挨拶で司郎をがっくりさせてから。
宙に浮いた状態で、兵部は物理的な上から目線で司郎の顔をのぞき込んだ。
「おまえ、不二子さんトコ行って途中で帰っちまったんだって？」
「・・・な、なんで知ってるんですか」
思わず噛んだ司郎に、兵部はにこやかに言った。
「さっき、ちょっと寄ってたまたま透視たんだ。なんで半端なとこでやめちまうんだよ」
「・・・・」
コトがコトだけに、ただ真っ赤になって何も言い返せない司郎に、兵部は訳知り顔で腕を組む。
「行くには行ったんだろ？・・・ああわかった。簡単にやられたんだ」
「やられてません！」
ムキになった司郎をけらけらと笑い、兵部はしっかり者の長女に確認を入れた。
「どう？紅葉」
振られた紅葉は、父の疑問と兄のプライド、どっちを取ったら良いものかと小首を傾げ。
「えっとまあ、やられてないっていうか、やられたっていうかぁ」
紅葉の視線が宙を泳ぐ。
困った顔で、頬を掻く。
「紅葉！」
司郎の顔は、もう真っ赤になっている。
そうして、変なところで鋭い兵部は、それで全部わかってしまったらしい。
「ああ、不二子さんの色気にやられたのか」
なるほどー、なんて、納得しないで欲しい。
「だって、しろーちゃんにあのちちしりふとももは無理よ？」
紅葉が、フォローだかなんだかわからない合いの手を入れた。
「こらこら、女の子がちちしりふとももとか言わない」
「はーい」
むしろ、司郎としては兵部にちちしりふとももとか言って欲しくなかったのだが、もちろんそんなことは口には出さない。
「しょうがないなぁ。ちょっとおいで」
ふわ、と、司郎の足が床を離れた。
もちろん自分で飛んでいる訳ではない。兵部の能力だ。
「ああ紅葉、今日、葉を寝かしつけるの一人で大丈夫かい？」
「うん平気」
頷いた紅葉に、ひらひらと手を振って。
「じゃあ、おみやげ買って来るから。葉もいい子にしておいで」
残す子供へのフォローは忘れずに、兵部はそこからテレポートをかました。
「やあ、久しぶり」
ひゅぱ、と兵部に連れて来られたのは、バーか何かのような室内だった。
最後のテレポートは繁華街の上空からだったから、そのどこかの店なのだろう。
しかし、テーブルにあるのはスナック菓子や紅茶のペットボトル。カウンターには書類のようなものが積まれ、綺麗な女性ばかりが数人、こちらを見て声を上げた。
「あれ、少佐だ」
「うわ少佐、ドコ行ってたのよ」
「久しぶりじゃないですかー」
彼女たちに声をかけられて、兵部はひらひらと手を振った。
「いや、ちょっと逮捕されちゃってさあ」
「うっそ、マジ？」
「マジマジ」
兵部を少佐と呼ぶのなら、ここはパンドラの施設なのだろう。
そう判断して、司郎は肩の力を抜いた。
「店長、少佐来てるわよ」
そう呼ばれ、高めのカウンターの向こうにあったドアから、マッスルほどの年齢の男が出てきて頭を下げた。
「お久しぶりです。久々に出勤ですか？」
「ううん、今日はお客で来たんだ」
お客、と言うからにはここは何かの店だろうが、見たところ、飲食店だった場所を居抜きで控え室か事務室に使っている、といった様子だった。
多少、仕事をさせてもらえるようになっていた真木は、そこまで考えて、なんだか嫌な予感がした。
はっきりとしないのだが、こう・・・そうだ、さっき思い浮かべた、控え室という言葉が引っかかる。
「今日、さくらさん入ってる？」
「ええ、もうすぐ来る頃だと思いますが」
そんな司郎の様子がわかっているだろうに意にも介さず、兵部はひょいと彼を指さして、爆弾を落とした。
「良かった。ちょっとこの子の筆おろし頼みたいんだけど、予約とか入っちゃってる？」
「しょっ、しょうさ！？」
嫌な予感ががっつりと的中して、真木はあわてふためいた。
「さくらは予約は取りませんよ」
しかし店長は、至極真面目に返事をしている。
てゆか筆下ろして！
何言ってんだこのヒト！！
「男なら、あのちちしりふとももに弱いのは、まあわかんなくはないけどさ。童貞じゃなけりゃ、威力も半減すると思うんだよね」
免疫つければいいんだよ、と、簡単に言う兵部は、司郎とは対照的に、普通ににこにこ笑っている。
「何？ハニートラップ引っかかっちゃったの？」
「でもそうかしらー。知っちゃったら余計酷くなったりして」
「大丈夫、男の僕が言うんだから。要は慣れだよ慣れ」
「少佐が言ったって説得力ないわよ」
そういった職業のお姉さんたちと、恐ろしいほど馴染んできゃっきゃと笑い合う兵部がなんだか恐ろしくて、司郎は恐る恐る口を開いた。
「あの、少佐、ここって・・・」
行きつけ、とか言われたら、泣いてしまったかも知れないが。
「うちがやってる、まあ、お互い気持ちイイことして資金も稼げて、情報なんかも取れる店。大丈夫、客は選んでるから」
そう言われて、ああやっぱり。パンドラも犯罪組織なんだしな、とごく当たり前な感想を持ったところで。
「おはようございます」
本来の入り口と思しきドアが開いて、ちょっと見とれるような女性が現れた。
「あ、さくらさん」
「あら少佐、お久しぶり」
そう言って笑うと、彼女はもっと美人だった。
「司郎、ここ一番の売れっ子のさくらさんだ」
兵部に紹介された女性が、にっこり笑って言い返す。
「一番の売れっ子はあなたでしょう」
・・・は？
そう言われて、思考も感情も一瞬止まった。
ええと、それどういう意味だ？
「滅多に出なかったからだろ。客も選びまくったし」
「でも、いっちばん稼いでたじゃない」
「お客さん、取られちゃったりもしたけどー、回してもらったことの方が多いから、恨んでないけどー」
「それ十分恨んでんじゃん。女の子は怖いなぁ」
「あったり前でしょ」
「でも少佐上手だもんねー」
「ねー、なんで男なんだろ」
「男だからじゃないかなぁ」
女性たち（一人違う）の会話に、司郎がじわじわと追いつめられていく。
聞けば聞くほど、そういう結論にしか達しない。
しかも、兵部はそんな司郎の様子に気がついて、そして恐らく何かを誤解して、本来の目的を思い出した。
「ああそうだ、今日予定ないならさ、この子の筆下ろし頼みたいんだけど、どうだい？」
「しょうさ！」
半泣きの司郎の声に、あら？と女性たちが反応する。
何せ、彼女たちはプロなのだ。
彼の涙声と視線の意味くらい、たやすく読みとってしまう。
この店のオーナーで元同僚が、男女の別なく非常にモテるのは、彼女たちもとてもよく知っているのだし。
しかし、ここに読みとれなくても売れっ子になってしまう男が一人。
「将来幹部にって考えてる僕の秘蔵っ子なんだ。頼むよ」
ここでそんな嬉しいこと言われても嬉しくない。
いや嬉しいけど。
そんなふうに思ってくれていたなんて、ものすごく嬉しいけど！
「嫌、です」
困った様子の女性が答える前に、司郎はきっぱりと言い切っていた。
「こら、本人目の前にして嫌言うな」
しかし、即座に後頭部を殴られた。
この高レベルエスパーは、結構生身の手が早い。
「初めてなら年上の上手な人がいいと思ったんだけどなぁ。・・・じゃあ、司郎はどんな子が好みなんだい？」
そうして、明後日の方向にいい親だった。
「少佐ぁ・・・」
「可哀想よ？」
彼女たちにはわかってしまっているのだが、肝心の兵部がわかっていない。
男である店長ですら、気の毒げな顔で司郎を見ている。
「店長、今日の勤務表見せてよ」
しかし、兵部は頓着しない。
高めのカウンターの向こうを、半分浮きながら乗り上がるようにのぞき込み、何やらボードのようなものを念動力で引っ張り取り上げている。
そんな彼に、雇われ店長がとんでもないことを言い出した。
「少佐、たまには出勤しませんか」
しゅ・・・出勤って。
司郎はもう、半泣きだった。
「そうだね、司郎待ってる間に一人くらいなら。ああでも僕、自主出所中なんだ。バベルにバレなそーな客、いる？」
カウンターに引っかかったまま、兵部は軽い調子で言った。
泣きそうになった司郎の背中を、誰かがくいと強く押した。
おっと、と踏み留まると、今度はどかりと背中を蹴られ、低レベルの念動力と思しき半端な力で、くいくいと前に引きずり出された。
「じゃあ、このお客さんお願いします」
声と共に、とん、とさきよりも強い力で背中を押された。
お・・・お客さんって！
慌てて店長を振り返ると、再び見えない力で兵部の方へ押し出された。
店長はたぶん、中程度のサイコキノだ。用心棒も兼ねているのだろう。
「俺も男ですから、ちちしりふとももはまあ、この年じゃあ慣れろったってムリだってのわかりますが」
思春期の男の頭の中は、９割がたそんなものでできている。
「惚れた相手のちちしりふとももと比べちまえば、他はカボチャみたいに見えるかも知れませんぜ」
ぽかん、と口を開けた兵部は、へこりと首を上げて司郎を見上げた。
「・・・ちちはないぞ？」
そういう問題ではなかった。
あちこちで、呆れたようなため息が聞こえる。
兵部もそれに気づいたのだろう。
小首を傾げて腕を組み、それからはっ、と顔を上げて。
「惚れた・・・って、おまえ、僕に惚れてるのか？」
そう、改めて聞きなおした。
しかし、顔はぽかんとしたままだ。
滅多に見れない表情かわいい。
じゃあなくて。
真木は、ぐっと兵部の顔を見下ろした。
いつの間にか、見下ろす位置になっていた、大好きな人の顔を。
「はい。・・・あのっ」
情けないけれど。
もの凄く情けないけれど、こんな機会がなければ言うこともなかっただろう想いを、司郎はやっと、口にした。
「俺、少佐のこと、好き、です」
おおー、と、背後から歓声が上がった。
テレパスが混じっているのだろう、やんややんやと頭の中にまで、それが響いていたたまれない。
兵部はその告白を、ぽかんとした表情のまま聞いて。
それから、おもむろに口を開いた。
「店長、奥の部屋空いてるか？」
「はい」
空いてなくても空けますよ、と、思っても言わない店長だった。