それは、諦めていた恋だった ２
学校帰りに寄った地獄堂では、思った通り、てつしが本を抱えて待っていた。
「あー、悪ぃ、リョーチン、先帰ってくれるか」
その本をがこんと本棚に戻して言ったてつしに、リョーチンはこくんと頷いた。
「うん」
リョーチンだって、てつしが椎名から逃げ回っていると、いろいろとばっちり受けてメーワクなのだ。
さっさと解決してほしい。
それでも、てつしが椎名を連れて地獄堂から出ていくのを見ていると、リョーチンはなんとなくサミシイような気分になった。
なんだかズゴく、ソーちゃんに会いたいなぁと、思った。
「・・・で、どうしたの」
椎名の声が、いつもよりも随分と低い。
うわー、怖ぇ、と思いながら、てつしは今まで無言で後をついてきていた椎名を振り返った。
とりあえず人気のないところ、と、二つ池の少し先、イラズの森の入り口の、最後に立った外灯の側。
夕暮れの森の薄暗さのなかでも、椎名の白い顔は際だって見えた。
３日ぶりにまっすぐに見るそれは、なんだかズゴくキレイに見えて。
いや椎名はもとっからすげーきれーなカオしてっけど！と、てつしはなんだかぐるぐるした。
「いい加減にしろよ、てっちゃん」
組まれていた椎名の腕がついと伸びて、てつしの腕をぐいと掴む。
珍しく、苛立ちを隠さない黒い瞳がずいと近づく。
掴まれた腕から、何かがぞわりと這い上がるような気がして、幼いてつしを混乱させた。
「っ！」
ばしん、と、椎名の手を振り払った音は、静かな森に、ことのほか響いた。
「・・・・」
椎名の瞳から、また、表情がなくなる。
椎名が何を思っているのか、てつしには推し量る余裕がない。
それでも。
ただ、椎名を手ひどく傷つけたことだけは、わかった。
「悪ぃ」
慌ててその手を捕まえ返す。
しかし、その質感にもの凄く後悔した。
綿素材の袖越しでもわかる、薄く肉のついた椎名の腕。
夏場には、当たり前のように半袖から伸びているそれが、何か別の生き物のようにのたうつのがフラッシュバックして、てつしはごくんと生唾を飲んだ。
椎名の瞳が怪訝そうな、しかしどこか甘い光を宿す。
たぶん、てつしとリョーチンくらいにしかわからない、ちいさな変化。
それがまた、無表情に飲まれる前に、てつしは口を開いた。
「あのな、夢、見たんだわ」
右手に収まる椎名の腕。
夢よりリアルなその質感に、なんだか勝手に息が上がる。
「あんま詳しく言いたかねーけど、とりあえず椎名がハダカだった」
椎名の瞳が大きくなった。
ぱっと見でわかる驚きの表情は、何か事件の時くらいしか見たことがない。
ああ、言いたくねぇなぁと思いながら、それでもてつしは後を続ける。
「そいで、起きたらパンツぐっしょりでさ。・・あんなん見ちまったら、椎名の顔なんかもー、見れたもんじゃねえって」
だから、悪かったな、と、続けてから、その手を離す。
離してから、ひやりと冷えた手のひらに、椎名の腕があたたかかったことを、やっぱり、夢よりリアルに感じた。
言われた椎名は、本気で驚愕していた。
隠し切っていたつもりだったし、気づかれていない自信はあった。
それでも、てつしがそう感じてしまったということは、隠し切れていなかったということだと、そう判断せざるを得なかった。
「それ、てっちゃんが悪いんじゃない」
椎名の声は、付き合いの長いてつしでなければ、わからない程度に。ほんの少しだけ、震えていた。
「俺のせいだ」
てつしは、変なところで鋭いのだ。
その能力を侮っていた、自分が悪い。
「そんなふうに、俺が見てたから」
ここで、こんな告白をしなければいけない事態を招いたのは自分なのだ。
そう、後悔とすり替えることで、泣きたいキモチを抑え切った。
しかし、てつしは脳天気だった。
「え、じゃあ俺ら両思いってやつか！？」
「・・・あのな、俺のせいだって言ってんだろ」
間抜けな自分とおバカなてつしと、両方にひどく腹を立てながら、椎名はてつしに納得させるには、どうしたらいいかを必死で考えた。
「俺が・・・ずっと、てっちゃんのこと好きだったから。たぶん、凄く物欲しげに、てっちゃんのこと見てたんだと思う。てっちゃんはそれを感じ取っちまっただけだ」
その挙げ句が淫夢というのは、なんだかもういっそ申し訳なくなってしまう。
自分が情けなくて、むしろ悔しさで泣きたくなってしまう。
「だからそれは思い違いだ、てっちゃん。俺がそんな目で見てたのを感じ取って、引きずられちまっただけだ。・・・ごめんな」
表情を消した、椎名の黒い瞳。
夕闇にさらに深くなったその黒を、じいっと見返したまま、てつしは低く、低く聞いた。
「なんでそれを、椎名が決めんだ？」
「考えるのは、俺の役目だろ」
てつしが怒っていることを承知で、椎名は軽く聞こえるようにそう答えた。
だって俺たち、ずっとそうやってきただろう？
それを、壊したくないんだ、てっちゃん。
そんな椎名の思いを余所に、てつしは思ったままに吠えた。
「そうだ。考えるのは椎名で、それで、決めんのは俺だ！」
ずっと、そうやってきた。
それを譲るつもりはない。
がるがると唸りそうな勢いのてつしに、椎名はこのままじゃ何を言っても無駄だと思った。
一度クールダウンさせないと。
こんな時にも冷静な自分が恨めしい。
でも俺は、てっちゃんの参謀だから。
いつだって、冷静でいなくちゃいけないんだ。
「何を決めるんだ？、てっちゃん」
聞けば、うっ、と、おバカなてつしは言葉に詰まった。
しかしさすがに、すぐに思い出した。
「・・・俺のキモチの話だろ！」
「さすがに誤魔化されないか」
「ゴマカすな！」
がなったてつしは、それでもさっきよりは幾分、落ち着いているようだった。
さてどうするか。
椎名は少し考えた。
自分を見据える熱い瞳を見返しながら。
そうして、ひとつ、ため息をついて。
諦めた。
「俺も、てっちゃんに言えないことがあるって言ったら、どうする？」
「聞く」
即答したてつしに、椎名はひらひらと手を振って、雑草に埋もれかけたベンチに誘った。
長い話になると思ったのだ。
側の外灯が幾度か明滅して、点いた。
その明かりに照らされた、てつしの腕にちらりと目をよこし、それから椎名はイラズの森の、高い梢を見上げて言った。
「俺の望みは、てっちゃんに一緒に死んでもらうことだ。てっちゃんの腕の中でな」
「・・・は？」
間抜けな声を出したてつしに、さて、どうやって理解させようかと考えながら、椎名はあの、「幸福狩り」事件の時に、自分も夢を見ていたのだと、その内容を詳細に語った。
その間中、てつしはあんぐりと口を開けて、信じられないと言う顔をしていた。
当たり前だ。
椎名だって、信じたくないくらいなのだ。
しかしそれは、信じようが信じまいが事実なのだと。
椎名は、確かに知っている。
ぶっちゃけセックスくらいしたってかまわないというかむしろ望むところなのだが、お互いに求めていることがこうまで違えば、それが得策とは思えない。
その時、てつしに残す傷を思えば、今、なるべく穏便に片づけておいた方がいい。
てっちゃんとのイヤラしい夢くらい、俺なんか一度や二度じゃなく見てるんだよこのバカ。
そんなことを思いながら、しかし言わずに。
「俺がてっちゃんに求めてることと、てっちゃんが俺に求めてることは、違うんだよ」
そう締めくくった椎名に、あんぐりと開けた口を閉めたてつしは、思った以上に混乱なく、しかしきっぱりと言い切った。
「何が違うんだかわかんねえ」
無表情の椎名が、口の端だけでちょっと笑う。
それを腹立たしく思いながら、てつしはぎゅっと拳を握った。
「それ、ずっと一緒にいたいってことだろ？」
てつしは、そう理解した。
死ぬときまで一緒にいたいって、そう思ってるってコトだろ？
「俺が欲しいのは、過程じゃない」
「カテイ？」
椎名はいつも、てつしにもわかりやすい言葉を使う。
それをしないのは、ケムに巻くつもりだからか、それとも。
その余裕もなくなっているのか、どちらかだ。
「俺が欲しいのは、一緒にいる時間じゃない。一緒に終わる瞬間なんだ」
じいっと。
椎名を見つめる、てつしの黒い大きな瞳。
宵闇にも負けないその光に、椎名は思わず目を細めた。
誰よりもよく見える椎名の目には、てつしはいつでも輝いて見える。
とても、とてもまぶしく見える。
「・・・・・違うだろ」
そのてつしが、椎名の言葉を否定する。
「だって、夢の中でお前、死ぬとこまでいかなかったんだろ？それでも、幸福だったんだろ？」
違う、と、椎名は言うことができなかった。
ただ、黙っててつしの言葉を聞いていた。
「椎名は欲しいのは、そのシュンカンじゃなくって、俺がそう思ってるってコトなんじゃねえのかよ」
椎名は一度、口を開いて。
そうして閉じて、それからゆっくりと首を振った。
「あんなのは、てっちゃんじゃない」
あそこで、椎名の命も自分の命も諦める。
そんなのは、椎名がついていくと決めたてつしではない。
「・・・嬉しいこと言ってくれんじゃん」
てつしはにっかりと笑った。
そう、椎名はてつしのことを、よくわかってくれている。
それが嬉しい。
「そんなシチエーションありえねえけどよ」
「シチュエーション」
「細けぇこと突っ込むな。・・・でもお前、俺が一緒に死んでやるってわかっただけで、幸福だったんだろ？死ぬトコまで行かなくっても」
思い出すだけでも苦い、あの幸福。
その味を噛みしめるように、椎名は唇を歪めて言った。
「行く前に、気がついちまったからね」
そこに、てつしは畳みかけた。
「行かなくっても、いいんだろ？」
椎名の瞳が、目に見えて揺れる。
竜也兄、椎名、言うよりちょっとバカだぞ。
大好きな兄の言葉にちょっぴり難癖を付けてから、てつしは顎を上げて畳みかけた。
「行って欲しいのかよ」
「・・・・」
てつしの言葉に混乱しながら、それでも椎名はじいっと考えた。
ほんとうに？
本当に俺は、てっちゃんと一緒に死にたいのか？
思い出すのは、あの瞬間。
あの、泣き出したいような、【幸福】。
「一緒に死んではやれねぇけどよ」
それは、てつしも椎名も、よくよく知っていることだけれど。
「最後まで、諦めてもやらねえ。・・・椎名のコトもな」
そう言って、ニイッと笑った男らしい顔。
どうしよう、と、椎名は思った。
どうしよう。
てっちゃんカッコ良すぎる。
それが惚れた欲目だと、十分に認識しながら、椎名は一度、目を閉じた。
一緒に終われない、ということは。
この後。
今度はこの幸福がいつ終わってしまうのかと、そればかりが恐ろしくなってしまうということだ。
それでも。
「それでこそ、俺が惚れたてっちゃんだよ」
そう言って、椎名は笑った。
きっと、【幸福】とは、本来そういうものだから。
とたん、てつしがわたわたし出したのはご愛敬だ。
わずかに涙の溜まった黒い瞳が、外灯の明かりに瞬いて。
ちいさく上がった口の端のかたち。上からの明かりと前髪の作る陰影。
やっべえ、椎名マジキレイだ。
そうおろおろするてつしに、椎名は小首を傾げて見せて、さらにてつしをおろおろさせながら、言った。
「でも、てっちゃん。俺でいいのか？」
椎名が今、一番懸念しているのはそのことだ。
「こんなの知れたら、女にモテなくなるぜ」
椎名は、なるべく軽い言葉を選んだ。
本当は、もっとたくさんいろいろと。
たとえば、将来のこととか何時まで付き合えるかとかてつしんトコの母ちゃんは心配しないかとか、本当ににいろいろ考えてしまっていたのだけれど。
今、てつしにそれを言いたくはなかった。
「何言ってんだよ」
そうして、てつしはてつしだった。
「椎名にモテてりゃ、それでいい」
そういわれ、にかっと男らしく笑われて。
椎名はスゴく、泣きたくなった。
ああ、ホントだね、てっちゃん。
俺は、てっちゃんにそう言ってもらえるだけで、幸せだ。
「なー、キスってどうやんだろ」
椎名の腕を捕まえて、ちょっとドキドキしながらてつしは言った。
「知んない。やってみる？」
さらりと答えた椎名も、実は、心臓が飛び出しそうだった。
「おう」
答えたてつしの唇が、ずい、と、近づいてきて。
目を閉じるよりも、柔らかなものが触れる方が早かった。
抱きすくめてくる腕は、あの夢の中よりも、もっと、もっと心地よかった。
「・・・なあ」
幸福な感触を残して離れた唇が、ほんの間近で少し笑った。
「セックスって、どうやんだろ」
調子に乗ったてつしの頭を、椎名は愛情を込めて、ばこんとぶん殴り。
それから、その耳を引っ張って。
「後でな」
そう答えて、てつしを喜ばせてくれたのだった。
終