それは、諦めていた恋だった １
それは、諦めていた恋だった。
その自覚は思いがけないところからやってきて、どうしようもなく腹を立てたりもしたのだが、少なくとも自分にとって不要な知識などないのだと、落ち着けばそう達観できた。
椎名は、てつしが好きで。
しかしそれは、叶うはずのない恋なのだ。
「椎名」
「オッケイ」
いつものようにてつしに呼ばれて、いつものようにてつしの方へ駆けていく。
椎名がついてくると疑っていない、その背中が大好きだ。
こちらを向いてにかっと笑う、男らしい笑顔が大好きだ。
札を挟んだ指の先にまで目を惹かれて、しかし椎名はその視線を無理矢理に引き剥がした。
てつしは鈍いから、気づいたりはしないだろうけれど。
これは、諦めなくてはならない恋なのだから。
その朝。
てつしの目覚めはいつも通りそう悪くなく。
いや、むしろいい方に近かった。
なんだかいい夢を見た気がする。
もの凄く、気持ちのいい夢だ。
でもなんか。
なんか・・・
「！」
てつしは、がばりと飛び起きた。
とたんに感じたのは、下着にぐしゃりと濡れた感触だった。
「あー」
やっちまったい、と思ったところで、ふとあることに気がついてしまい。
「・・・・・・あ゛〜！」
そのままてつしは頭を抱えた。
しかし、バカのてつしが何を考えたところで、いい考えなど、浮かんでくるはずもないのだった。
ここ２日ほど、椎名はてつしに避けられている。
いつもほぼべったりの三人悪なのだから、そんなことはすぐにわかる。
一昨日は用事があると下手な嘘をついて放課後逃げるように帰られ、昨日は掃除当番だからとリョーチンと二人、先に帰され、しかし地獄堂にも現れなかった。
学校でもなかなか捕まらず、しかしリョーチンには普通に会っている（同じクラスなのだから当然だが）。
そうして今日に至っては、朝、迎えに行った椎名の顔を見たとたん、「俺今日休むわ！」と、ダッシュで階段を駆け登り、二階の自分の部屋に引きこもられた。
「えっと、椎名・・・？」
リョーチンが、おどおどと椎名の顔をのぞき込む。
椎名の、いつもの無表情がもの凄く怖い。
「・・・竜也兄、頼む」
しかし、椎名は怒りつつも冷静だった。
「ん」
部屋から出てきたところで、ぼうっと玄関に立って弟たちを見送ろうとしていた竜也も、寝ぼけつつも冷静だった。
「てつ、病気でもないのに部屋に居座るな」
ほてほてと下りてきたばかりの階段を上り、てつしの部屋を遠慮なく開ける。
「母さんが心配するだろうが、サボるんなら余所へ行け」
ここで、「サボるな」のセリフが出てこないのが金森家である。
「でも、竜也兄」
ランドセルを抱えたまま、らしくなくオタオタしているてつし。
「・・・・・」
弟のいつにない様子に、竜也はううむ、と寝起きで回りきらない頭で考えた。
そうして、どうやら大事な弟の一大事らしいと察して、階下の椎名たちに声をかける。
「悪いな、今日は先行ってくれるか」
竜也兄がそう言うなら仕方がない。
二人は、しぶしぶとそのまま学校へ行った。
「・・・で、どうした」
てつしの前にどっかりと座り込んだ竜也は、眠い目をごしごしと擦った。
ああ、顔洗ってなかったっけ。
「う・・・・」
てつしが本気でうろたえているのを確認し、少しかなしくなって首を傾げる。
「俺に言えないことか？」
てつしはぶんぶんと首を振った。
こんなこと相談するとしたら、竜也兄をおいて他にない。
「竜也兄、あのさ」
てつしは、正直に一昨日の朝のことを竜也に告白した。
「なんか・・・どうしよう・・・・」
「・・・・」
これには竜也も困るしかない。
泣く子も黙る上院の竜も、やっと思春期の中学生。
相談に乗れるほどの経験はない。
しかしだ。
弟が困っているのに、相談に乗ってやれない兄貴にはなりたくない。
「夢精は初めてか？」
とりあえず聞いてみると、ちょっとお馬鹿な弟はへこりと首を傾げた。
「ムセイ？」
「夢見て出しちまったの、初めてか？」
言い換えてやれば、バツが悪そうに首を縦に振る。
「あー、まあ、何回かある」
「そうか・・・」
弟の成長に、なんとなく感無量になりながら、竜也兄は続けて聞いた。
「祐介の夢は」
「初めてデス・・・」
「そうか」
竜也兄は血の巡りきらない頭で、自分の経験と照らし合わせる。
コレはアレか？
「お前、祐介のこと好きなのか？」
変にうがたず、ストレートに聞いてみれば。
「好きに決まってる」
まっすぐ返ってくる答えは、想定どおりでむしろ難しい。
友人の好きと、恋人の好きの違いなんて、難しくって竜也にだってよくわからないのだ。
だから、話は直接的なものになった。
「・・・セックスしたいか？」
「うわ」
びっくりしたように呟いたてつしは。
「わー・・・・・」
そのまま、赤かった頬を更に真っ赤にしてうつむいた。
「まあ、男なら、セックスしたいから好きとは限らないけどな」
誤解のないように、と付け加えられた言葉に、てつしはがっくりとうなだれた。
「なんてコト言うんだよ竜也兄・・・」
まあ、てつしも男なので竜也の言いたいことはわからんでもないのだが。
でも、それを認められるほど大人でもないのだ。
てゆーか、それあっさり言える竜也兄すげえ。
竜也とて、べつにあっさりと言えた訳ではないのだが、兄貴が弟の前では大人ぶりたいのは上院の竜とて同じ。
「でも、その限らないトコに祐介ってのは、俺も腑に落ちないんだがな」
「・・・だよなぁ」
真っ赤になったまま、今度は頭をかきむしりだした弟の小さな頭を見下ろして、竜也はなんだか嬉しいような、寂しいような気分を味わった。
このまっすぐな弟の初恋が、あの斜に構えまくった椎名というのは驚きだが、まあ、似合いと言えなくもないだろう。
「よく考えろよ、てつし」
がしがしとその頭をかき混ぜてやると、情けない涙目がじとりと見上げてきた。
「俺、バカだもんよ。考えたってわかんねえよ」
「なら、そうだな」
ようやっと目が覚めてきた竜也は、可愛い弟のためにとりあえず現状最善と思われる案を提示した。
「全部、祐介に言え」
「げ」
てつしは絶句して竜也を見上げた。
「で、どうしたらいいかわからなくなってることも、全部言え」
そりゃあねえだろ、竜也兄。
そう、ありありと顔に書いてあるのをわかっていながら、竜也はまた、がしがしと弟の癖っ毛をかき混ぜる。
「だってお前、ずっと祐介を避けてる訳にはいかねぇだろ」
真摯な竜也の言葉に、てつしはしぶしぶ頷いた。
「・・・ああ」
そう。
参謀の椎名がいなければ、上院のてつは成り立たない。
三人悪は、成り立たないのだ。
「二人でどうしたらいいか考えろ。・・・大丈夫だ。あいつは俺より頭がいいからな」
うーとかあーとか呻いたてつしは、結局何も言い返せないまま、がくりと頭を垂れた。
「・・・竜也兄ほどじゃねえだろ」
「どうだろなぁ」
竜也兄の手が頭から離れる。
その手を追うように、てつしの顔が上がる。
その顔は、すっかりハラを決めた男の顔で、竜也兄を惚れ惚れさせた。
「とりあえず俺、地獄堂行くわ。ちっとカクゴ決めとかねえと」
気合いを入れて立ち上がったてつしに、竜也はめったに見られない笑みを向けた。
「そうしろ」
「竜也兄、学校は？」
「・・・・行く」
そろそろ、竜也も家を出る時間だ。
てつしのせいで朝から頭を使って、いつもよりもハッキリしている・・・ような気もする。
「聞いてくれてありがとな、竜也兄」
そう言って、ニッカリ笑ったてつしは、いつものイタズラ小僧の顔に戻っていて。
竜也兄を、とっても安心させたのだった。