俺の、家族 ９
アスランが母親を亡くしたのは、５つのときだった。
手元に残った数枚の写真が、おぼろげな記憶を補強して、しかし亡き人に夢を見るには、アスランは早熟な子供だった。
父の書斎には、恐らくもっと写真があるのだろうけれど。
見せてくれと頼む機会を、十数年、逸し続けている。
「だいたい、その頃からほとんど帰って来なくなっていたしな」
迷惑じゃないけど、話してもらえないのは嫌だ。
なんとか涙を引っ込めたシンがそう訴えると、アスランはああ、と頷いてくれた。
疲れてるみたいだから明日でもいいと言いながら、離れ難そうにしているシンに、アスランはあたたかい飲み物が欲しいと言って。
二人分のミルクを温めて持ってきたシンに、彼は静かに語りだした。
アスランがいつも使っている、濃紺一色のマグカップ。
それを包んだ手をじっと見て、シンはその落ち着いた声に聞き入る。
顔を見るには、勇気が少し、足りなかった。
それがあったのが、１２才のとき。
「結構普通に、変質者とか強姦魔とかだったんだと思うんだけど」
そうあっさりと言ってのけたアスランは、次の言葉にこそ、力を込めた。
「でも俺は、そいつに触れられて、・・・抱きしめられて、すごく、気持ちいいと思ったんだ」
「・・・どうして」
言ってから、後悔する。
取り消そうとして、わたわたして。
その隙に、アスランは言葉を重ねていた。
「そいつの手はあったかくて。時々痛かったけれど、辛かったりもしたけれど、でも」
ふい、とシンの見ていた手が伸びて。
マグカップにあたためられた手が、シンの頬に、触れた。
包帯越しのぬくもりと、柔らかな指先。
消毒液の匂いに混じった甘さは、たぶん、ミルクに落としたハチミツのそれ。
「人に、体温があることとか、匂いがすることとか。触ると、肌に圧力が掛かって、強すぎると痛いけど、丁度いいと気持ちがいいこととか。そいつにされて、俺はやっと思い出したんだ」
記憶もおぼろな母親の、暖かな手。
抱き上げてくれた父の、シャツの匂い。
「最後に札を握らされて、こういうやり方があるって気が付いた。・・・嬉しかったな、あのときは」
アスランの、そこだけむき出しの指先が、そっとシンの頬を撫でる。
嬉しかった、と、その声は、本当に嬉しそうで。
シンは、うつむいたまま、きつく目をつむった。
なんで、そんなこと嬉しそうに言うんだよ。
ぜんぜんいいことじゃないじゃないか。
そんな。
気持ちも体も、みんな踏みにじられるようなことされて。
なのに、そんなに、嬉しそうに。
そこまで、追い詰められていたアスランの寂しさを思う。
この大きな家に一人って、ものすごく辛いんだ。
それを、シンは知っている。
ほんの数日だって、あんなに辛かったのに。
この人、ずっと。
するり、するり。
あたたかな指が、シンの頬を撫でる。
時々、包帯の橋が引っかかって、くすぐったい。
「でも」
アスランの、本当にほんとうに嬉しそうな声。
シンは、そのあたたかな指の感触を確かめるように、きつく瞑っていた目を開いた。
「でも、君が来たときには、もっと嬉しかった」
意を決して、顔を上げる。
緑の瞳が、笑っていた。
シンの大好きな、優しい目。
「初めから、父の策略だとわかっていたんだ。でも」
でも、嬉しかったんだ、と言ったアスランの声は、さっきよりもずっと、嬉しそうだった。
ずっとずっと、嬉しそうで。
シンは、知らず入っていた肩の力を、抜いた。
シンの肩に、知らず入っていた力が、抜けた。
「策略、って」
声が温んでいるのが、自分でわかる。
それが、アスランにも伝わったのだろう。
ふっと閉じられたアスランの目元からも、緊張が消えている。
「家に誰かいれば、少なくとも家に男を引っ張り込むことはできないだろうと、面と向かって言われたよ」
「・・・知ってたんだ」
おじさん、知ってて。
「ああ。まあ、子供のすることだからな。俺もあまり隠そうという気もなかったし」
その、『子供』という単語には。
誰の、という意味が感じられなくて。
たぶんそれは、ただの、年端のいかない者という意味しかなくて。
「父は、たぶん、母と暮らしたこの家を、汚されたように思ったんだろうな・・・」
そう続けたアスランの、口元の笑みが、かなしい。
でも。
「それ、たぶん、違うんじゃないかな」
アスランさん、思い違いしてるんじゃないのかな。
大きくて、なんだか怖い印象しかないおじさん。
ぶっちゃけ顔なんか覚えてない。
でもさ。
たぶんさ。
「おじさん、アンタのこと、心配だったんじゃないかな」
「だと、いいな」
そう言ったアスランの目は、夢見るようで。
そうだといいなと言いながら、そうだとは、かけらも思っていないことは、シンにもわかった。
それがなんだか、余計にかなしい。
シンは、ずるずると音を立てて、自分の分のミルクを飲んだ。
さっきまで湯気を立てていたそれは、もう冷めはじめている。
アスランも、指を濃紺のカップに戻して口をつける。
赤い唇に、かすかにミルクの白が移って。
シンはドキリとしたけれど、もう、目は逸らさなかった。
「・・・でも」
その代わりに、アスランの方が、目をカップの方に移してしまった。
長い前髪に隠れて、表情が見えない。
「父も、俺がこんなに君を好きになってしまうとは、思わなかっただろうな」
シンの心臓が、跳ね上がった。
でも、その声に滲んでいたのは、今までとは違う、苦い苦い笑いで。
「君といたいから、夜はどこにも行かなくなった。君に嫌われたくなくて、男の人を誘うのもやめて、優しい兄を演じて・・・・・・挙句にこれじゃ、間抜け以外の何者でもないんだが」
アスランが、ふ、と、顔を上げる。
緑の瞳が、真摯な光を宿して。
かなしいほどに、綺麗だった。
「顔を合わせるのが嫌なら、家に帰る時間をずらす。さっき言ったように、もう体売ったりしない。だから・・・シン。頼むから」
たのむから、と、アスランは繰り返した。
「ここにいて、くれないか？」
「・・・・」
シンは一瞬戸惑った。
それをどう取ったのか、アスランは、ふ、と瞳を翳らせて。
シンは慌てて、ぶんぶんと首を振った。
「あの、俺、ここ以外に行くとこなんかないんだけど」
「・・・お前、自分の口座の中身知ってるのか？父が振り込む額だけでも、十分部屋が借りられるぞ」
アスランの呆れた声に、シンはもっと慌ててしまう。
「え、あ、そうなんだ？」
なんだかそっちの通帳に手を付けるのには気が引けて、もともと持っていた口座の方ばかりをちまちまと使っていたから知らなかった。
「で、でも、わざわざそんなことするイミわかんないし」
シンがそう言うと、アスランは、「そうか」とほっとしたように笑ってくれた。
その笑顔が、すごく、とっても綺麗だったから。
だからシンは、意を決して、聞いた。
「ねえアスランさん、ひとつ、教えてよ」
「ああ、何だ？」
答えるその声は、もう、聞きなれた『兄』のもの。
でも、それだけじゃ嫌なんだ。
だってシンは、もう、知ってしまったから。
自分の気持ちを。
「俺じゃなくても良かった？家にいて、寂しくなくしてくれるんだったら、誰でも良かった？？」
「・・・・」
アスランは、ひと呼吸ほどぽかんとして。
「すまない。考えたことが、なかった」
そう、バカ正直な答えを寄越した。
シンは正直ずっこけたのだが、アスランはそんな少年の様子には気づかずに、マグカップに視線を落とし、何やらぶつぶつと呟き始めて。
「・・・・でも、そうか。そうだな。・・・・そうなんだ・・・・・」
それからつい、と視線を上げて、ひどく嬉しげに、口を開く。
「たぶん、シンじゃなくちゃ、ダメだ」
そんな嬉しいことを、言ってくれる。
「家にはいろんな奴を入れたし、イザークたちには、何日も泊り込まれたりしたが・・・でも、こんなに安心なんかしなかった」
嫌な奴の名前に、ちょっとムッとしたけれど、シンの方がいいって言ってくれたから、我慢することにする。
「シンで良かった。この家に来てくれたのがシンで、本当に良かった。・・・・・すまない」
「なんで、謝んのさ」
あまりの褒めように照れくさくなって、ちょっとぶっきらぼうに返せば、アスランの声が、また、少し沈んだ。
「ご家族が亡くならなければ、君がここに来ることはなかっただろう。それを喜ぶようなことを言って、すまない」
「ううん」
シンは、首を振って笑う。
「俺も、みんな死んじゃって、でも、その後来れたのが、アンタのところで良かった」
顔を見合わせて、ふたり、子供のようにえへへと笑う。
楽しいな。
心地いいな。
このまんま、この人と。
ほんとの兄弟みたいになれたら、この楽しくって心地いいのが、きっとずっと続くんだろうな。
シンは、それを惜しいと思った。
すぐに手放してしまうには、その楽しさ、心地よさは、あまりにも惜しいものだった。
でも。
でもさ。
シンは、勇気を振り絞った。
振り絞って、言った。
「俺、アンタのこと、好きです」
「・・・ありがとう」
はにかんだように笑ったアスランは、きっと、シンの言葉の意味を理解していない。
だから。
「あの、わかってます？俺、今告白したんですけども」
慌てて付け加えると、アスランは、二、三度目をしばたたかせて。
それから、ぱっと頬を赤く染めた。