俺の、家族 ３
「・・・売るなって言ったよな」
「いーじゃん。お前の取り分もあるぜ？」
「俺がもらってどーすんだよ！」
アスランのノートのコピーは、ヴィーノとヨウランに見事に売られてしまっていた。
「お前ら追試じゃないだろ、なんでこんなのいるんだよ」
「受験用。お前、大学行かないの？」
「成績・・・」
「でもお前、理系はいいじゃん。それで受けりゃイケルだろ」
「・・・そうかな」
でも俺、大学なんか行っていいのかな？
一応孤児の身の上なのだ。親の貯金はあるにはあるが、やはりそれでも心もとない。
考え込んでしまったシンの肩を叩き、ヴィーノが陽気に笑った。
「ま、一年のうちから考え込むことないだろ」
「考えろよお前・・・・」
一応ここ進学校だぞと、ヨウランが頭を抱えて唸ったとき。
そのヨウランに金を払った隣のクラスの奴が、仲間内でぼそぼそとしゃべってから、何故だかこそこそとシンに声を掛けた。
「なぁ。アスカ」
「ん？」
彼の手にあるコピーの束に、何だか居心地悪くなりながら、シンの応えは歯切れが悪い。
「何？」
「いや、あのさ」
声を掛けておきながら、いったん言いよどんだそいつは、どうやら仲間内からシンに声を掛ける役を押し付けられたらしい。
仲間をちらちら見やりながら、重い口を開いた。
「あのウワサってさ、ホントなのか？」
「ウワサって何？」
アスランのウワサなら、いろいろ聞いている。
３年間ずっと主席だったとか、テストで２番だったのは、熱を出した１回だけだったとか、陸上競技の校内レコードは、陸上部のものを差し置いて、すべて彼のものだとか。
それなら全部本当だ。
しかし、彼が言っているのは、どうもそういったものではないらしい。
「そうじゃなくて、さ」
もう一度、仲間と目を合わせ、それからそいつはぼそぼそと言った。
「アスランさんが、ウリやってたってウワサ」
「は？ウリってなに？」
本当に意味がわからずに、シンは真顔で聞き返した。
その声が大きかったせいか、そいつは慌てたように声をひそめて。
「えっと、だからさ。その辺のオヤジに、金もらってヤらせてたって・・・」
「はぁ？」
シンは、あんぐりと口を開けて固まった。
「なんだよそれ」
他に、なんとも言いようがない。
「どっからそんなすっとんきょーなこと・・・・」
呆れたシンの様子に、そいつは残念なような、ほっとしたような顔をして、「そうだよな」と、仲間を振り返る。
「やっぱデマかよ」
「だよなぁ」
「でも先輩がさぁ」
後ろで勝手な声がする。
バカじゃねえの、あいつら。
「なんなんだよ・・・・」
ぼやいたシンは、この「笑い話」をヨウランやヴィーノと笑い合うべく、自分も振り返って。
「そっか、やっぱりただのウワサだよなぁ」
「ありえねーもんなー」
そう言い合う二人に、呆然とした。
「なん・・・だよ、それ」
「ああ、わりと有名なウワサだぜ？まあ、誰もホントだとは思ってなかったけどさ」
だって生徒会長だったもんな！と、ヴィーノが笑う。
その笑いに、邪気がないのにほっとした。
「あの人、やたらと綺麗だろ、だからそんなウワサ立っちまったんだろ？」
「あー、そうかも」
「男に綺麗言うなよ。・・・ああでも綺麗かも」
ヴィーノに合わせて、シンもヨウランも笑った。
そう、ただの笑い話だ。
しかし、その笑い話は。
シンの心に、一片の影を落とした。
聞けないよ、なぁ。
キッチンで、何やら真剣にフライパンを覗き込んでいるアスランを見やり、シンはテーブルに頬杖をついてひとりごちた。
聞けないし、言えない。
『うちのガッコに、こんなウワサあったんだってさ』
なんて、笑い話としても、言えないだろ。
だって、アスランはれっきとした男の人なのだ。
真剣な横顔、綺麗だけど。
フライ返しを持った長い指、綺麗だけど。
まだ足が上手く動かなかった時、転びかけた俺のこと、片手で支えて挙句に抱き上げられそうになったんだ。
宿題するしないで、軽くじゃれあいになった時には、あっというまに押さえ込まれた。
そんな、強い男の人。
そんな人がさ、そんなことしてたって。そんなの、ウワサだけでも嫌だろう。
「よし。・・・・どうした？シン」
「あ、ううん。出来たんなら出すよ」
「頼む」
今日は白身魚のソテーだった。
ちょっと端が崩れて、見た目はいまいちだけど、アスランが作るものはたいてい美味しい。
シンが手伝って食卓を整えると、アスランはいつも、にこりと笑って「ありがとう」と言ってくれる。
その笑顔が見たくて、シンはいつも、食事時には居間に来ていて待っているのだ。
「ああ、シン」
ちょっとしょっぱかった。そんなことないよ。
そんな他愛もない話をしながら食事をしているうちに、さりげなく、アスランが切り出した。
「明日は、遅くなると思うんだ」
「何？合コンか何か？」
「違うよ。・・・・夕食は、冷凍庫にピザがあるから」
「なんかアンタ、俺の母親みたい」
「母親って・・・せめて、兄と言って欲しいな」
「兄貴がそんな細かくメシの心配なんかするかよ」
「そう・・・かな」
「そうだよ」
皿の上のものを、すべて平らげて。
シンはもう一度、「そうだよ」と笑った。
ただの、軽口。
他意なんかなかった。
冷凍庫にあったピザは、サラミがたっぷり乗っているから、シンも大好きなやつだった。
でも、なんだか今日は味気ない。
いつも、目の前で何だかんだ言っている人間が一人いないだけで、こんなに寂しいものだとは思わなかった。
「ごちそーさまぁ」
それでも手を合わせて、箱や食器を片付けて。
手を洗って蛇口をきゅっと締めると、家の中の音は、何もなくなってしまった。
遠くに、車のエンジン音。
それが、余計に家の中の音のなさを感じさせて、たまらなくなって。
「宿題、やろっかな」
わざとらしく声を出し、階段を登ってドアを開ける。
机は、ほぼ物置と化していた。
宿題は、食事の後、同じテーブルでする癖がついてしまっていたからだ。
そこですれば、わからないところはいつだってアスランが教えてくれるから。
夕食の後でも、まだ一人になりたくないから。
そんな自分の弱さが、いつも、彼がいる時間にこうして一人で過ごすだけで露呈する。
情けないな、俺。
思いながらも、シンは机の向こう、アスランの部屋との間の壁を、じっと見つめた。
この家は造りがしっかりしているから、前に住んでいたアパートのように、隣の部屋の声まで聞こえることは、ほとんどない。
それでも、そう厚くはない壁の向こう。
誰かが…アスランがいれば、時々、物音くらいはする。
人の気配は、わかる。
それがない。
それだけで、何故、こんなにも頼りない気分になるのか。
何だか、黒くて嫌なものが、ひたひたと足元に寄せるような感じがする。
これは、家族をなくしてすぐの頃、ずっと感じていたものに似ていた。
得体の知れない、恐怖。
しかしシンは、ひとつ首を振ると、すぐに鞄から宿題の問題集を引っ張り出した。
幸い、今日の宿題は得意科目の数学だけだ。
「これなら一人でなんとかなるぞ、っと」
頑張って出した明るい声が、静かな部屋にむやみに響いて。
なんだか無性に、泣きたくなった。