また、眠ってしまったのだろう。

燈台の明かりが揺らめく天井を眺め、ぼんやりとした頭で永泉は反芻する。

夕刻。

夕刻に・・・何があるのでしたっけ・・・？

おぼろげな記憶に付随する、わずかに苦い幸福の味を思い出したところで、その「答え」が姿を現した。

「目が、覚めたか」

横たわる永泉の側に膝をつき、そうっと汗の浮く額から、禁色の髪を払う。

永泉は声も出なかった。

あんなに、焦がれた人が、すぐ側にいる。

自分に触れて、声をかけてくれる。

「あ・・・・あ・・・・・・・」

近くに行けるだけで幸せだと、そう思って出てきたのに。

逢えるだけで幸せだと、そう思っていたのに。

触れてもらえるなんて・・・思ってもいなかったのに。

このまま、死んでしまいたい。

この指が、離れてしまう前に。

「永泉？」

この声が、耳から消えないうちに。

 

 

 

泰明の帰りは、夕刻ではなく、夜になった。

それでも任されてしまった仕事を必死になって片付けてきた泰明は、真っ先に永泉を寝かせた部屋へ足を運ぶ。

泰明の見立てでは、今日か明日にでも目を覚ますだろう。危険な状態は去ったし、手足の凍傷も大事には至らなかった。

 

雪の中で、幸福そうに微笑う永泉。

 

あれは、自分の失態だ。

 

『もう、来ない』

そう言うことが正しいのだと、あの時は思っていた。実は今も、どこが間違っていたのかよくわからない。

しかし間違っていた。それは事実だ。

永泉が、こんな非常識な行動に出てまで、自分の下にやって来ようとしたのが、その証拠。

あの選択は、間違っていたのだ。

 

 

 

やっと目を覚ました愛しい人の、額に張り付いた髪を除け、体温を計る。

まだ熱いが、危険な熱さではなくなっている。

しかし、ほっと胸をなでおろしたところで、永泉が激しく喘ぎだした。

じっとこちらを凝視した夜色の瞳から、涙がとめどなくこぼれ落ちる。

「どこか苦しいのか」

体のあちこちに触れ、具合を確かめる。気の流れを読み、どこが悪いのかを推測しようとする。

しかし、完全に狂った気が永泉を蝕み、その苦しみの所在は判然としない。

「永泉、気を静めろ。それだけでも楽になる」

手のひらで頬を包み、熱を持った唇に自分のそれを寄せる。

気を注ぎ込み、誘導する。荒れ狂う、持ち主にさえ制御できない力を、元の流れへと戻そうとする。

それは、静かで苛烈な戦いだった。

 

「やすあ・・・きどの・・・・」

やっと聞くことのできた永泉の声に、泰明は全身の力を抜いた。

勝利の感覚は、何故か少し空しい。

「胸が、苦しいのか？」

交合するのと同じくらい、深く気を交わらせていたのだ。末端部の凍傷と、発熱、それに伴う頭痛と体の痛み。その理由はわかっている。原因が不明なのは胸の痛みだけだと、泰明は判断する。

薄い胸に手を当てた。心の臓も肺臓も、過剰な熱を得て、常よりも活発に動いている。差し迫った異常はない。

「・・・きど・・・の・・・・」

こぼれ続ける涙と、細く洩れる声。

その理由を必死になって探すが、見つからない。

自分に対処できない事態にあったらどうするか。

「待っていろ。師匠を呼んでくる」

絶対確実だが最後の手段に走ろうと、泰明が腰を上げると、いっそう激しく永泉は泣き出した。

「・・・・っく・・・・・」

薬を塗りこめられた指が伸ばされる。

それが、自分の存在を求める行動であると、泰明は正しく理解した。

一瞬の逡巡の後、凍傷に障らないようにその手首を取ると、そうっとその指先に口付ける。苦いのは、薬か、後悔か、泰明にはわからない。

「・・・すまなかった」

謝る、ということは、なんと簡単なことなのだろうと言ってから気づく。

たったこれだけの言葉で、何かの償いになるわけではないのだから。

しかし、泰明には他に何も思いつかなかった。

手を伸ばされれば、取ることができる。

自分の存在を欲するのなら、いくらでも側にいる。

それで、永泉の痛みを、少しでも癒せるのなら。

できることならば、なんでもするのに。

「申し訳・・・ありませんでした・・・・」

できることならば、なんでもするのに。

何をしたらいいのかわからない、自分の粗末な出来に歯噛みする。

「もうしわけ・・・・・」

「おまえが謝ることはない」

それだけは確かだったのに、永泉はもう一度謝ると、辛そうな吐息をついた。

「でも、泰明殿が・・・もう、会いたくないと仰ったのに、なのに、私・・・・」

ひく、ひく、と、嗚咽のたびに震えるからだ。

愛しくてたまらないそれを抱きしめ、泰明はもう一度、空しい思いと共に謝った。

「すまない。それは間違いだった」

「ま・・・ちが、い？」

熱で潤んだ瞳が、きょとりと見上げる。

「私がおまえに会わなければ、おまえは笑うこともあるのだろうし、私は痛くなくて済むと思ったのだ」

「どこが・・・痛いのですか？」

それは、酷く的外れな質問だった。しかし泰明は、大真面目に答えた。

「全部だ。おまえに会っても、会わなくても、おまえのことを考えると、私の全部が痛い。最近はおまえのことばかり考えているから、全部がずっと、痛い」

言って見下ろした永泉の瞳から、透明な雫がこぼれ落ちた。

泰明は焦る。

的外れな質問に答えている場合ではない。

いや、その質問は永泉から発せられたものだから、今、なんでもすると決意した自分が答えるのは当然なのだけれど・・・・

だめだ。

混乱している。

冷静にならなければいけない。

その涙を、綺麗だと思っている場合ではない。

自分の背中に回された、腕の感触を喜んでいる場合ではない。

暖かな体を、腕の中に閉じ込めている事実に、陶然としている場合ではない。

そんな場合ではない、のに。

「私のことを、考えて？」

言葉に詰まるうち、永泉に先を越された。

「そうだ」

それは本当のことなので、即座に答えると、背中の永泉の手のひらが、ぎゅうっと狩衣の布地を握り締めた。

凍傷を負った指に悪い。

そう思って、外させようとその手を取る。

しかし、永泉の指は硬く握られたまま。

「泰明殿、私のことを、愛していると、仰いますか？」

「ああ、愛している」

それも本当のことだ。

「では・・・では、泰明殿」

泰明の胸に顔を伏せたまま、永泉は聞いたこともないような、乾いて冷たい声で、言った。

「私を・・・私の、名前を、もちろん体も、差し上げます。お好きになさってください」

「名前？」

体はわかる。泰明も欲しい。

しかし、名前というのはどういう意味なのだろう？

「その代わり・・・そのかわり、お側に置いてください。会いたくないときには、大人しく待っています。名前のことも、最後の責任は私だけで取ります。ですから、どうか」

おそばに。

おいてください。

最後の言葉は、嗚咽に紛れていた。