記憶の底にある、いちばん古いものは、母さまの優しい手。

さわさわと、撫でてくれるのを止めてほしくなくて、ただ、じっとしていた。

動いたら、母さまの気が変わってしまうかもしれないから。悪い子だと思われてしまうかも知れないから。

只々、じいっと。

 

 

 

 

初めて兄上にお会いしたのは、私が八つのときでした。

兄上は優しい言葉をかけて下さり、短いけれど、幸福な時間を過ごすことができました。

とても楽しかったので、そのことを母上に報告しました。母上はいつも兄上のことを良く仰っていなかったので、そうではないということを、わかって欲しかったのです。

しかし母上は・・・・最後まで聞いては下さりませんでした。その場に引き倒されて酷い折檻を受け、もう兄上にはお会いしないと誓いました。

母上がそう仰るなら、それが正しいことだと、そのとき私は信じていましたから。

 

 

次に兄上にお会いしたのは、月のない夜でした。

私は、母上に言われた部屋で、母上に言われたとおり殿方のお相手をしておりました。

そこへいらっしゃった兄上は、大変お怒りになり、その方を追い出されてしまいました。

以前にお会いした兄上は、とても優しく穏やかな方だったので、私は驚いて身動きもできませんでした。兄上はそんな私を優しく抱き上げ、帝の・・・父上のところへ連れて行って下さったのです。

父上には、何度かお目通りしたことはありました。しかし御簾も隔てず、それどころか膝の上に抱き上げてくださったのは、初めてのことでした。

兄上と父上は、なにか難しいお顔をしてお話をしていらっしゃいましたが、初めて感じた父上のぬくもりにぼうっとしていた私はほとんど聞いておりませんでした。

その後、私は兄上のお部屋へ連れて行っていただいて、手ずから手当てをしていただきました。そして兄上の衣をお借りして、兄上の褥で一緒に休みました。

兄上は、私が眠るまで、ずっと髪を撫でていてくださいました。

暖かくて気持ちよくて。とても、幸せでした。

 

だから。

愚かな私は、兄上が参内してすぐに、母上に報告しに行ってしまったのです。

父上の膝が、あたたかかったこと。兄上が、たくさん撫でてくれたこと。

とても嬉しくて幸せだったことを、大好きな母上に、言いたくて言いたくて。

 

兄上には、止められていたのに。

 

母上は、私を悪い子だと言いました。、檜扇が何度も振り下ろされました。

やがて、壊れてしまった檜扇が投げ捨てられ、脇息が振り上げられ・・・・それから後のことは、憶えてはおりません。

気がつくと、側に兄上がいらっしゃいました。母上がお怒りではないかと聞くと、もう怒ってはいらっしゃらなかったと教えて下さいました。

・・・そして、私をおいて宇治の別邸へ行ってしまわれたことも、教えて下さいました。

 

今思えば、それは仕方のないことだったのでしょう。子供が、将来身を立てるようにと心くだくあまりに、行過ぎた行為に走ってしまった女(ひと)を、そのままにしておくことは危険だったのでしょうから。

それが自然とわかるようになるまでは、私は母上に捨てられたのだと思っておりました。

・・・・いえ、心の底では、今でもそう思っているのかもしれません。

私が、悪い子だから。母上に、いらないといわれてしまったのだと。

 

 

 

記憶の底にある、いちばん古いものは、母さまの優しい手。

じっと、息を殺して感じている。幸せな幸せな思い出・・・・・