泰明の手は、とても気持ちが良い。

力を、与えてもらった後、柔らかく抱きしめられて。泰明は、いつもしばらくそうしている。この時間が、永泉は大好きだった。

ずっとこうしていたいけれど・・・・無駄を嫌う泰明の声が、今日もささやかな夢を破る。

「永泉、日暮れだ」

温まっていた胸が離され、急に冷やされるのが寂しい。

「はい、ありがとうございました」

それでも、女々しいと思われるのが嫌で大人しく立ち上がった。

体はずいぶんと楽になったけれど、心が、少しだけ痛い。

少し乱れた髪を整え、もう一度礼を言おうと泰明を振り仰ぐと、すぐそこに怜悧な美貌が迫っていてどきりとした。

「御室へ着く頃には暗くなる。送ろう。」

「え、あ・・・・」

泰明の言っていることが信じられなくておたおたしてしまった永泉を、泰明は不思議そうにのぞき込む。

「どうした」

「い、いえ、・・・あの、ありがとうございます」

先に立った泰明の後を追いながら、永泉は思う。

泰明殿は、お優しい・・・・

御室寺の、大きな山門が見えてきた頃、あたりはすっかり暗くなっていた。

「あれは・・・」

永泉が小さく声をあげた。

太りつつある月の光に浮かび上がったのは、仕立ての良い、明らかに高貴な身分のものと知れる車。牛飼い童が足台を置くと、するりと上がった御簾の向こうから、美しい女が降りてきた。

六日目の月の下、それは、鬼か、幻か。

女の顔は、永泉と瓜二つだった。

「母上!!」

かたわらの永泉が駆け出すのを見送りながら、泰明は悪い夢のような驚きを振り払った。

なるほど、親子ならば似ているわけだ。

しかし、永泉の走るさまなどはじめて見た。急に温度が下がったような左側を一瞥すると、永泉の「母親」とやらを見に歩き出した。

「母上、何故このようなところへ？」

右京は治安の悪さで有名だ。だから永泉も送ってもらっているというのに、車には牛飼い童が１人と従者が１人、女房が１人付いているばかり。

「お前に、会いにきたのです」

ぱあっと、子供のように笑う永泉など、はじめて見た。何か胸のあたりが重くなった泰明は、少し離れたところに立つ。

「あ、ありがとうございます」

いまだ弱い月光でもわかるほど、永泉の頬が染まっている。

「何故、出家などしたのです」

美しい女は、声までも美しく。ぼうっと聞いていれば、内容など聞き損じてしまいそうで。

「え・・・・？」

開かれた瞳に映るのは、冷たい月、冷たい目、冷たい・・・刃。

「永泉！」

振り下ろされた小柄の前で、身じろぎもしない永泉の右肩を、泰明は強く引いた。

前髪が数本断たれて舞い、永泉はそのまま倒れこんだ。

「帝となるべきは・・・・お前が・・・・おまえは・・・・・」

「急急如律令呪符・・・・」

「泰明殿っ！止めてください！」

「お方様！」

一瞬の、混乱と収束。

泰明の足にすがる永泉と、母親を取り押さえる従者と女房。動けない泰明と、暴れ続ける永泉の母親。

「せっかく私が帝となるよう産んでやったのに、・・・・たのに・・・・

死んでしまえ！お前など、産むのではなかったわ！」

泰明は、足にまわっていた永泉の腕にぎゅっと力が入り、それからぱたりと落ちるのを感じた。

「お方様！どうか、もうこれ以上は・・・」

「離せ！あれを始末するのじゃ!!離せぇ」

鬼女だ

泰明は思った。

自分の子供を喰らう鬼。

自分の術では、どうにもならない鬼。

女はもう、永泉と同じ顔には見えなかった。

「開けろ」

山門で、御室寺の者に今まで引いてきた手を差し出す。永泉はされるがままだったが、門の守りは困ったように泰明を見上げた。

「あの・・・」

「部屋まで連れて行ってやれ」

「いえ、その、私はここを離れるわけには。」

「そうか」

泰明は白い手を引き寄せると、通用口の隙間へ身を滑らせた。・・・永泉も、引かれるまま後に続く。

あの後、永泉の母親は従者と女房に車に乗せられ去っていった。女房は何度も頭を下げ、このことはご内密に願いますと言っていて、そのときはまだまともだった永泉が頷くと、礼を言って車に乗り込んだ。

それから、永泉は一言も口をきかない。

只々、静かな建物の、更に静かな部屋へ通され、泰明が手を引き座らせてやっても、力なく俯いたまま。

泰明はつないだ手を離して良いものかどうか迷った。

今離すと、永泉が消えてしまう。そんなありえるはずのないことが頭に浮かんで消えない。

自分は手順を踏まぬ予知はできない。だから、そんなはずはない。

言い聞かせても、嫌な想像は頭を離れない・・・

「永泉」

抱き合っていないことが不思議なほど、身を近く寄せて名を呼ぶと、のろのろと白い面があがった。薄闇の中、黒にしか見えない瞳は、焦点を結んでいない。

「永泉・・・・」

左手は、つないだまま、右の手のひらをいつものように左目に当てようとして、初めて反応があった。

「泰明殿、もう、いいのです」

細い左手が、泰明の右手を押しのける。

「何故だ？」

言ってから泰明は気が付いた。永泉の気は乱れていない。乱れるどころか、わずかな漣さえもない。それでは、気を分けてやる必要はないだろう。

「もう、必要ないのです・・・私は。母さまが、死ねと・・・・・いらない、と・・・・。だから・・・今まで、お手数をおかけして、申し訳ありませんでした・・・・・」

最後のほうは声が小さくて聞き取り難かったが、別れの言葉だったように思われた。

何かが、ぞうっ、と背筋を駆け上がる。

泰明は思わず、目の前の体を抱きしめていた。

腕の中で、永泉は弱々しく抗っていたが、すぐにそれは止んだ。細い体がくたりと泰明に預けられる。

腕がだらりと下がったまま、自分の背中に回らない。

はじめは嫌がっていたのだから当たり前のことなのだが、泰明は酷く不安になった。

これが不安というものなのだと、初めて感じた。

首筋に唇を寄せ、脈があることを確かめる。

少し体を離して唇に指を当て、息をしていることを確かめる。

それでもまだ不安で、単の合わせから手を差し込み、胸の鼓動を確かめる。

生きていることは確かなのに、不安で不安でたまらなくて。

前にしてやったとき、とても喜んだのを思い出し、腕や背中を撫でてやる。

それでも反応が返らなくて、今度はいつかの夜のように、僧衣を剥ぎ取った姿にしてみる。永泉が、単をかき寄せることを期待して。

・・・・それでも、永泉の腕は上がらない。

もうどうしていいのかわからなくて、泰明はただ、永泉を抱きしめた。

こんなに辛いのに、永泉の体はやっぱり柔らかくて気持ちが良かった。直に触れるのは、初めて抱いたとき以来で、あのときには気付かなかった古そうな傷があちこちにあることがわかった。誰がつけたのだろう？こんなに、綺麗で気持ちの良い肌なのに。

傷跡に触れ、そこを舐めた。いまさら遅いことはわかっていたが、この傷を癒したかった。傷と共に触れた肌は、どうしようもないほど良い舌触りだった。

いつも触れていた左目の上にも、髪に隠れてかすかな傷跡があることに気がつき、唇を寄せる。瞼に口付け、こじ開け、機能を果たしていない眼球にも舌を這わせると、やっと永泉の体が少し震えた。

「ぁ・・・・」

眼球は、茹でた卵のように滑らかで弾力があった。そして、少しだけ塩辛い。

「ぃ、ゃ・・・・・・」

本気で嫌がっているようなので、瞼の奥から舌を引き抜く。少し残念だったが、下がったままの指が自分の袂を掴んで少し引いたので、やっと安堵して身を離した。

「永泉」

左の目から、唾液とも涙ともつかないものがこぼれ落ちる頬を、泰明の胸に伏せて隠す。そのさまが可愛くて・・・・・そう、これが「可愛い」ということなのだと認識して、泰明はまたその体を抱きしめた。

「こんなに良いものがいらないなど、信じられぬな」

「ぇ・・・・・」

「お前は、気持ちよくて綺麗で、可愛い」

伏せた顔を少しだけ上げて、永泉は泰明を見上げた。

外からもれるかすかな月明かりに、琥珀と翡翠がひたりと光る。

綺麗、というのは、泰明のようなひとのことをいうのに。

もしも、私がこんなふうに綺麗で強い存在だったなら、母上は私を必要としてくれたのだろうか。・・・・・帝になど、ならなくても。

泰明の強い瞳に耐えられなくなって目を閉じる。

どうせなら、こちらの目もなくしてしまえばよかったのに。

この世の美しいものも、醜いものも、もう、見たくはないのに・・・

閉じた左瞼に暖かい息を感じた。

次に乾いた唇を、そして熱く濡れた舌を。

先程されたことを思い出して小さくふるえるとそれは離れていったけれど、今だ、濡れた瞼に吐息を感じる。その吐息が、言葉を紡ぐ。

「お前が、いらない、ということはない。私は、お前が必要だと思う。・・・・お前は気持ちが良いから、いないと、困る・・・・」

言いたいことが上手く言葉にならないなど、泰明は初めてだった。しかし、言いたいと思った。神子は私が言葉が足りないと言っていたが、これで足りているだろうか？

開かれた瞳を覗き込むと、夜の泉のようだった。静かな水面に小さな波が現れて・・・・溢れる。

「永泉？」

はらはらとこぼれ落ちるこれは、涙というのだろう。何故かもったいないような気がして舐めとると、眼球と同じ味がした。いくら舐めても溢れてくるそれに、泰明が困り始めた頃。

「ありがとう、ございます・・・・・」

かすかな声が、腕の中から聞こえた。ほの赤いくちびるが、つ、と動き、泰明の口の端に触れる。柔らかな感触が気に入って自分からも触れてみると、永泉の唇がわずかに開き、自分のそれに舌が触れた。もっと気持ちよさそうなことを思いつき、永泉の口腔に自分の舌を差し込むと、・・・・そのまま、２人は深い口付けに酔いしれた。