君の手のひら １
ちょっと疲れた、いつもの場所で休んでくる。
そう言って兵部が消えるのは、最近ではよくあることだった。
時々、子供たちを連れて行ったりもするが、本当に調子が悪いときには、真木にだけ言い置いていなくなる。
それでも、行き先を告げて行ってくれるだけマシだと、あの消失事件で思い知った真木だった。
今回も、そりゃあ疲れただろうとしか言いようがない。
何せ、半年以上虚数空間で行方不明になっていた挙げ句に、帰って来てすぐ国連軍の本気ＥＳＰ装備とガチバトル。
まあ、運命の分岐は越えたのだ。きっと、これからいろいろ楽だろう。
・・・たぶん。
そう思わなければやっていられない。
先の見えない未来に対し、兵部の動きが全く読めなくなったとか、とりあえず今は考えない。
そう思って、真木は兵部の分の書類仕事を、自分の机にどさりと置いた。
今回の失踪が長かったせいで、真木のボス代理は定着しきっている。
兵部がいなくても、すべてが回ってしまうのだ。
それを哀しく思いながら、その一番上の書類をめくった。
それは、バベルとの口裏合わせの調整確認で。
真木は、深々とため息を付いた。
パンドラで持っている、気に入りの温泉旅館に身一つで現れた兵部は、テレパシーでフロントに一言言い置いて、いつもの部屋へとテレポートした。
兵部のためにいつもキープしてある部屋は、８畳と１２畳の続きといった平凡なものだが、最上階であることを利用した小さな庭と、そこに面した大きな窓の風呂がある。
ここを任せた女将は離れを用意すると言っていたのだけれど、「味噌汁が冷めない距離がいいかな」と言ったら、この部屋になった。
できれば、「年寄りじゃないんだから」とかの突っ込みが欲しかったのだが、実際、適温の料理がタイムロスなしで出てくるので結果オーライだ。
靴を脱いで、入ってすぐの畳にぺたりと座り込めば、すぐにその女将が現れて、兵部に玉露を煎れてくれた。
「お布団をお敷きしましょうか？」
そう聞かれて、湯呑みを持ったままこくりと頷く。
たいていは、来るなり風呂に入るから、よほど疲れて見えたんだな、と兵部は確かに疲れて回らない頭でぼんやりと思った。
この宿は、従業員の気遣いが半端なく良いとノーマルの間でも評判になっている。
だって、雇っているのはほとんど低レベルの精神感応系エスパーなのだから、当たり前だ。
しかし、女将はレベル１のサイコメトリーと、同じく１のプレコグしか持っていない。複合能力は、基本、発達しない。
リミッターを付けていれば、ノーマルとなんら変わりはしないのだ。
優しい人は、みんなエスパーだと、書いてあったのは何の本だったか・・・
湯呑みの中身が半分になる前に、布団が敷かれて女将が下がる。
夕食の時間を聞かれたので、今日はいらないとだけ答えておいた。
目が覚めると、部屋は暗くなっていた。
布団に倒れ込んでそのまま眠ってしまったはずだったけれど、肌に触れるのは浴衣とシーツ。
それから、右肘の内側にかすかな痛み。
視線を泳がせれば、髭面の男がこちらを見下ろしていて。
兵部は、ひとつ、ため息をついた。
「今、何時？」
「午前４時です」
「夕食断っといて良かったな」
「アンタ丸二日半寝てたんですけどね」
「・・・・・」
それだけの間、着替えさせられ、腕に針を打たれても目覚めないほどに深く眠っていたのか。
そりゃあ真木に通報も行くな、と、兵部はあっさり諦めた。
たぶん、普段ならここで真木に当たって見せるところだが、残念ながらそんな気力もない。
「水を・・・飲めますか？」
聞かれて、少し考えてから頷く。
右肘の痛みは点滴の針だ。
飲まなくても問題はないだろうが、確かに喉が乾いていた。
ぐんなりとしたままの体を抱き起こし、支えて水を飲ませながら、これはまずいな、と真木は思った。
抵抗もなく、反応も少なく。
意地と好奇心で出来ているはずの、この人のこの反応は恐らく、本当にまずい。
しかし、同時に思ってしまうのだ。
こうしてずっと、大人しくしていてくれないかと。
「風呂は」
「ん・・・いい」
聞けば、首を振られて危機感を強める。
いつもは逆に、止めても無理矢理風呂に入り、真木に介抱させるのに。
「寝る」
そう言って、ぱたりと目を閉じた兵部を抱き支え、布団に横たえようとして、真木は、ふと手を止めた。
兵部の、針の刺さった右腕は、真木の袖を掴んだままだった。
その指の、些細な力がひどく大きな救いのような気がして。
真木は、その手をそっと握った。
眠っていたというのに、少し冷たいそれを。
少しでも、温めたいと思った。
ひどく、暖かい夢を見た。
誰かと手を繋いで歩く夢だった。
目が覚めると、髭面の『子供』がのぞき込んでいて。
何故だか、手を握っていた。
それが、少しだけがっかりしたような。
それなのに、もの凄くほっとするような。
不思議な感覚に、思わず指に力を入れると、その手を握り返された。
眠りすぎてむくんだ指に、緩い圧迫が気持ちいい。
「何か召し上がりますか？」
聞かれて。
点滴のせいか、特に空腹は感じなかったけれど、こくりと頷く。
「お粥」
ここのお粥は、米にも水にも拘っているから、とてもおいしい。
それから風呂にも入りたい、と続けると、真木は、さっきの兵部のように。
何故かひどくほっとしたような。
残念そうな、顔をした。
時刻は、丁度夕飯時だった。
食事の用意をしている間に風呂に入ってしまおうと、布団の上で浴衣を脱がされ、代わりにタオルを掛けられ抱き上げられる。
これは、脱衣場で兵部がよくわからないわがままを言い出して、その間に体が冷えることを防止する、真木の編み出した兵部対策なのだが。
全裸で真木に抱き上げられて、その首に腕を巻きながら、兵部はぺたりと薄い胸を真木の顔面にひっ付けた。
胸の先の赤みが、真木の口元に当たる。
この唇に、幾度も愛撫された場所だった。
「前が見えません、少佐」
しかし、すぐに引き剥がされて。
兵部はむう、と頬を膨らませる。
「おまえさ」
そうして、ぎゅう、と首にしがみつき。
「こので体勢平気なんだ」
「平気ではありません」
即答の後、真木は少しだけ言葉を切って。
「ですが、この状態のあなたに手を出すほど愚かではありませんから」
触れた素肌はひどく冷たい。
顔色も悪いし、真木と二人きりだというのに、わがままもありきたりなものだ。
まあ、わがまま言い出しただけまだマシか、と思いながら、真木はその体を冷やしてしまわないよう、浴室へのドアを炭素繊維を使って開けた。
「ばーか」
投げやりな罵倒を聞き流し、兵部の体をタオルごと湯に浸ける。
そうすれば、ふ、とその体から力が落ちて。
真木をまた、不安と期待のない交ぜになったような気持ちにさせた。
しかし。
「真木、お湯が少ない」
「心臓に負担がかかりますから」
「それにぬるい」
「ぬるくはないでしょう」
心臓に負担をかけないようにと、湯量を肩が少し出るくらいに調整してあるのに、兵部は肩まで浸かるのだと言い張った。
そのまま、浴槽の壁面にずるずると背を滑らせて体を伸ばし、そのまま沈みかけた彼を抱き起こして。
真木は仕方なしに、湯を足してやる。
湯温に関しては論外だ。
ちりと目を向けた湯温計は４１度。どうして年寄りは体に悪いとわかっていながら、熱い風呂に入りたがるのか。
濁った湯が喉元まで来ると、兵部は薄い唇の端を微かに上げてから、は、とその唇から吐息を漏らした。
どうやら満足してくれたらしい。
湯が少なくても冷えないようにと肩に掛けたままだったタオルが今度は邪魔になって、それを取り去る。
そうすれば、力ない体が白く濁った湯の向こうで揺らめくさまが、絶妙なぼんやりさ加減で見えて。
真木は、兵部の頭を洗ってやるか否かに、思考を無理矢理集中させた。
ちゃんと乾かすまで起きていてくれないと、風邪をひかせてしまう可能性があるけれど、今の彼がそうしてくれるかどうか。
しかし、その逃避思考に結論が出る前に。
気持ちよさそうに閉じられていた漆黒の瞳がふい、と開き。
血色を取り戻した唇が、今度こそ、ニイ、と彼らしい笑みを浮かべた。
「お前も入れよ、真木」
「遠慮します」
「遠慮すんなって」
その言葉を聞いた瞬間には、もう、真木は湯船の中にテレポートさせられていた。
もちろん、服を着たまま、湯船の底に座り込むかかちで、だ。
ざばあ、お湯があふれ出す。
真木は、白濁した湯の中で、ゆらゆら揺らめく炭素繊維の先を見下ろした。
「水も滴るいい男だぜ」
「・・・恐れ入ります」
深々とため息をつき、仕方なしに服を脱ぎ始めた真木を見上げながら。
兵部はいたずらっ子の笑みを、不意に、柔らかなものに変えた。
「真木」
「はい」
呼ばれて、反射で答えながらベルトを外す。
さら湯ならともかく、そこそこに濃い硫黄泉だから、すぐにクリーニングに出さないとまずいだろうな。
そんなことを考えていた真木に。
「大丈夫だよ」
兵部はそう、柔らかく笑って言った。
それは彼の時々見せる、子を愛おしむ親の顔だ。
大人にはならないと言い張る彼の、それでも時々見えてしまう。
真木の苦手な。
真木の愛する。
養い親の、顔。
「・・・・」
真木は無言でスーツを脱いだ。
張り付いてみっともない下着も脱ぎ捨て、湯船の外へ放り出す。
そうして、ざばりと彼の側に座り込んで、あたたまってほの赤く染まった体を、膝の上に抱き上げた。
いつも、二人で風呂に入るときの体勢だ。
心臓近くまで湯面が下がるし、真木の胸にぴったりと付いていれば肩も冷えない。
兵部も、文句を言わない。
「まだ、大丈夫だ」
ただ、真木の喉に銀色の頭をすり付けるようにしてそう繰り返すその人に、真木は憮然として問うた。
「その自信は、一体どこから出てくるんですか」
「僕を誰だと思ってるんだい」
兵部京介だと思っている。
だから。
「・・・あなただから、心配なんです」
限界の近い体を抱えて、それでも、望む未来のためならその限界さえも越えてしまう。
己のいない未来のために、己のすべてを使い尽くして。
真木たちの前から、ふらりといなくなってしまう気満々の。
「あなただから」
心配など無駄だと知っている。
それでも。
「心配なんですよ、少佐」
そんなあなただから、愛したのだと。
どんなに言葉を尽くしても、この人はそれを理解しない。
もしかしたら、わかっているのかも知れないけれど。
それを、おくびにも出さない。
「で、おまえさ」
血色の良くなった顔を上げ、腕を無理な角度で伸ばして、ぐっしょりと濡れた真木の髪をくしゃくしゃと乱し。
「この体勢平気なんだ」
「平気ではありません」
真木はまた、深々とため息をついた。
兵部はごそごそと腰を動かして、丁度尻の間に真木のものが来るように座り直している。
さすがにまずいその腰を、横抱きに抱え直して。
それでも、滑らかな腿が当たっているのだからあまり解決にはならず、兵部はむしろしてやったりとばかりに真木の首に腕を絡めて、すりりとその胸に懐いた。
「食事がまともに取れたら考えます」
もう修行僧のような真木の表情に、兵部はくすりと笑った。
「食べるよ。ここのごはんは美味しいんだ」
そう言って、耳朶を食んで来る唇を、真木は炭素繊維の先で撫でて離させることに成功した。
真木のくせに生意気だ、と、囁かれた声の甘さはいつもよりも、少しだけ、わざとらしさが足りなかった。