翡翠の瞳 ５
昔から、鈍い鈍いとは言われていた。
幼馴染の親友に。
罵り合った戦友に。
共に戦った、少女に。
その鈍さを、今ほど呪ったことはない。
嫌、だろうそれは。
経験があるわけもないので、どれくらい嫌なのかは想像もつかないが、それはたぶん・・・ものすごく、嫌だろう。
「気がつかないで、あんなことしてすまなかった」
他に、何も言えることがない。
シンは、アスランの腕を掴んだまま、肩に額を押し付けて、遠慮のない嗚咽を交えて、わめき出した。
「夢にまで見ましたよっ！なんでかわかんないけど、あなたが、マユを、父さんと母さんを・・・殺し、たって、思ってて。俺、コイツがって、憎くて、憎くて。ただじゃ、殺らないって、それで。あなた、が。あんなふうに、泣いて。それで」
「シン」
「俺、それ夢だってわかってるんです。あなたのこと好きだって、すっごい思ってるんです。やめろやめろって、叫んで、でも、夢の中の俺は、あなたをめちゃめちゃにしたくてたまらなくって。あなたが泣くと、それがすごい気持ちよくって。もっと、すごい悲鳴聞きたいとか、もっと、酷いことないかなとか」
「もういい」
「もっと、って。それで、ナイフがあって、少し、力を入れたら、それで・・・」
「もういいから！」
嫌な思いをさせたとは思ったが、彼に、そんなに傷が残るとは思わなかったのだ。
だってまさかそんな。
「あなたのこと、好きなのに。大事にしたいって、守らなきゃって、思うのにっ。俺はあれ、すごい気持ちよかったんです。あいつらと一緒で、泣いてるあなた、イヤなのに、あなたの腕、妹の腕、思い出して、すごい、怖かったのに、でも、あなたの、俺、オレ・・・あなたを、めちゃめちゃにっ・・・・」
支離滅裂な言葉を洩らすばかりになったシンの肩を、アスランは無事な手でそっと抱いた。
震える肩の、頼りなさ。
この子は、たった１６なのに。
どうしようもなく人を憎むことを、知っていた。
どうしようもない憎しみの生んだ生々しい結果も、知ってしまった。
でも確か、自分がそれを経験したのも１６だったか。
あのとき、そんな自分を受け止めてくれたのはカガリだった。
今は。
自分が受け止めてやらなくちゃいけない。
アスランは、シンの肩に置いた手のひらに、力を込めた。
「大丈夫だ、お前はそんな奴じゃないだろう？」
「なんであなたにわかるんですか！」
魂から絞り出すような、悲痛な叫び。
上げられた赤い瞳から流れる涙が、赤い血でないのが不思議で可哀想だ。
心は、血を流さないから、痛がっているのがすぐにわからない。
「わかるよ」
あやすように背を撫でて、その赤い目を覗き込む。
自分の鉄面皮に感謝した。アスランも、今、泣きたい。
「だってお前、もう、知ってるだろう？お前が、そうやってめちゃめちゃにしたときには、お前みたいに・・・そうやって、泣く奴がいるってことを」
それを知ってなお、行動に移せるほど、お前は酷い人間じゃないだろう？
「でも俺、あなたを・・・・」
「それを混同するなよ。わからなくもないけど」
軽く、背を叩いて。
「お前が憎いのは、家族を奪った奴らで。お前が好きなのは、家族と・・・その、俺で。俺に暴行したのが、俺たちを憎んでる奴らで、でも彼らに憎しみを・・・大事なものを奪われたことに、代償を求める心を、お前は理解できてしまうから。だから、そんなふうに思うんだ」
ぐちゃぐちゃになったシンの心を、アスランの穏やかな声が、ゆっくりと分解していく。
「でもお前、あいつらとは違うだろう？」
その信頼は、どこから来るんだろう。
泣き疲れた頭で、シンはぼんやりと思った。
アスランの手が、優しくシンの背を撫でている。
子供をあやすのは慣れている、という顔をして、シンの泣き顔を、見ている。
「なんで俺・・・あなたに慰めてもらってるんでしょう」
ひどい目に遭ったのは、あなたの方なのに。
「さあな。お前が辛そうだからだろ」
「辛いのは、あなたのはずだ・・・」
「辛いけど、大丈夫だよ。お前が泣いてくれるからな」
「・・・キスしていいですか」
何故、そんなことを言ったのかはわからない。
しかしアスランはいつもの調子で「ああ」と答え、シンは何も考えずに唇を押し当てた。
柔らかい感触。
この唇を、酷く汚した時のことを思い出す。
またこぼれた涙を、アスランの指が拭ってくれた。
そして、もう一度。
「お前は、大丈夫だよ」
その言葉は、信じられる気がした。
見上げた翡翠の瞳が、優しく笑んで。胸が、きゅうっと痛くなる。
ああ、ホントに俺、この人大好きだ。
苦しい夢を、思い出す。
そんな奴じゃないと言われても、あの生々しさは消えなくて。
もっと、もっと胸が痛くなる。
辛いけど、大丈夫だとこの人は言った。
その、強さを思う。
その、脆さを、思う。
やっぱりこの人も辛くて。
でも、シンに笑ってくれて。
「なんで、そんなに頑張れるんですか」
「わからないよ」
「あなた、そういうところだけ妙にいいかげんですよね」
「ああ、そうなんだ」
本当に、自分のことだけはいいかげんで。
そうなんだ、と、笑えてほとんど無自覚に。
そんな酷さも大好きで。
「アスランさん」
「ああ」
「好きな人には、やっぱり辛い思いして欲しくないんです」
「そうだな」
「俺はあなたが好きです」
「・・・・そうか」
「あなたが辛いのは、嫌なんです」
「・・・大丈夫だから」
「嘘下手ですよ」
「そうかな」
「嘘だって認めるんですか」
「・・・・・・」
「アスランさん」
「・・・・・・・・」
黙ってしまったアスランが、少年の肩を強く抱いた。
伝わるぬくもりが、切ない。
夢みたいだと、シンは思う。
あんな悪夢じゃない、もっと、幸せなユメ。
「シン」
「はい」
なんだろう、と、見上げたシンの唇に、あたたかいそれが再び押し付けられて。
「っ、・・・・」
驚いたシンが慌てて身を引くと、傷ついたような瞳と目が合った。
「お前な、逃げることないだろう」
「え、でも、だって、なんで・・・・」
アスランを好きだというのは、シンの勝手な気持ちだ。
彼にそんな感情がないことは、今までの様子から聞かなくてもよくわかる。
だから、なんで、そんな。
「お前が今辛いのは、俺をあんなふうにしそうだと思うからだろ。なら、しないことを確かめればいい」
本当に、どこまで酷い人なんだろう。
どこまで、優しい人なんだろう。
どこまで・・・・
「アスランさん、ヤケになってませんか？」
「少し、な。でも、それだけじゃない」
伏せられた瞳を盗み見る。
時折見せる、脆い瞳。
「流石に・・・あれは、俺も堪えたから」
あれを、『堪えた』で済ますんだろうか、この人は。
また泣きたくなったシンの体に、するり、とアスランの肩がすり寄せられた。
「仕方がないのはわかってる。それだけのことを、俺はしてきたから。それでもやっぱり、憎まれるのは、辛いよ」
言った声は、震えていた。
シンは思わずその肩を抱く。
あたたかいな、とアスランは思った。
シンの、ぬくもりは。
散々に憎しみを叩きつけられて、ひび割れた心に、優しく染みる。
昔、なんだかもう遠い昔。
母の帰りが遅くて寂しいとき、一緒にいてくれたキラのぬくもりを思い出す。
きっと、自分の側にはいつもこういうのがいて、敵わないと思いつつ惹かれて、面倒見て救われて。
それなら。
うん、それなら。
このぬくもりに、癒されたい。
「辛かったら、癒されたいと、思うだろ」
そう言って、三度、触れた唇は、柔らかくてあたたかかった。
あの夢の中で、キスはしなかった。
あんなに、したいと思っていたのに。
切れて乾いて、ひどく汚れたそれを、必死に舐めたことを思い出す。
今それは、柔らかく潤って、あの感触が忘れられないシンを、ひどく慰めた。
「・・・いいんですか」
「ああ」
応えた声は、どこまでも優しかった。