翡翠の瞳 ４
医務室は、キライだ。
消毒液の匂いもキライだし、なんか白いのもキライだし、実は医者って前からキライだ。
でも、ここのところずっと、シンは時間の許す限り、医務室にいる。
医務室で、まだ、意識の戻らない人の側に、付いている。
二人が帰還したときには、大変だった。
ぼろぼろのアスランを抱えて、迎えたみんなから隠すようにして。
とにかく医務室に押し込んで、医療スタッフと艦長だけには、事情を説明して。
みんな、彼の尊厳は守るって言ってくれた。
体の方も、ちゃんと治るって、医者も言ってた。
それでも、意識が戻らないのが心配で心配で。
ガーゼの張り付いた頬に、そっと、触れる。
毛羽立ったガーゼ越しに感じる熱に、怖くなって、離して。
それでも気になって、また、触れようとして。
覗き込んだところで、不意に、長い睫毛がわずかに震えるさまを見た。
「・・・アスラン、さん？」
呼べば、目蓋も震えて。
翡翠の瞳が、ゆっくりと、ひどくゆっくりと開かれた。
「・・・・・シン？」
その声はかすれていて、言葉になっていたかどうかも怪しかったけれど。
確かに、シンの名を呼んだ。
「アスランさんっ！」
思わず大声を上げて、アスランはそれをこらえるように目を閉じた。
しまったと口を閉ざすと、再びアスランはシンを見上げてくれて。
「・・・よかった、生きてる」
「生きてるって・・・」
今度ははっきりとした、妙に落ち着いた声に、シンは思い切り脱力した。
「いや、お前の腕を信用していないわけじゃないんだが。気を失う前に大きく揺れたから、撃ち落とされたかと」
「それ信用してないって言いませんか・・・。落ちたんじゃなくて、下りたんです。エネルギー足りなかったし、とにかくやりすごさなきゃって」
そういう話をしている場合なんだろうか。
「ああ、よくやった。的確な判断だ」
それでも、彼がそう言ってわずかに口の端を上げると、誇らしい気持ちが湧き上がるから不思議だった。
「ほんとに、おまえ、できるんだから、・・・やれよ」
点滴の管の刺さったままの右腕がずるりと動いて、毛布の下から現れた。
強張った指先が、シンへと伸ばされようとして・・・・叶わずに、落ちる。
その力なさに、かつて見た妹のそれを再び重ね、シンは苦しくなって息を詰まらせた。
「無理、しないで下さい」
ベッドから落ちた腕を拾い上げ、両手に包んだシンの手首に白い包帯を見て、アスランはわずかに頬を歪ませた。
ガーゼのせいで、それ以上表情は変わらないが。
この腕で、アスランを抱え、銃を撃って脱出したのか。
弾丸さえ見切った動き、状況把握能力、どこまでも的確な判断、そして、その、力。
まったく。
「お前やキラみたいにすごいやつが、本気になってやらないから、俺みたいなのが、やらなくちゃいけなくなるんじゃないか・・・」
我ながら訳のわからない愚痴を言ったと思う。その上、後半は肺の空気が上手く出なくて、あまりちゃんと言葉にならなかった。
「あの、大丈夫、ですか・・・？」
心配そうな、シンの声。
「たぶん、俺よりお前のほうが知っていると思うんだが。・・・・大丈夫、なのか？」
途中で痛みが麻痺してよくわからなくなったが、致命的な傷はあったのだろうか。折れたまま、固定もせずに動かした左腕はどうだろう。俺はまだ、戦えるのだろうか。
「え、と。はい。腕も、元通りになるって。あ、俺、医者呼んできますっ」
つまずきながら走り去るシンの背中を見送り、アスランはひとつ、大きく息をついた。
よかった。
彼も、自分も、インパルスも無事らしい。
セイバーは申し訳ないことをしたが、この場合、あれ一機で済んだのは僥倖だろう。
ほんとうに、よかった。
できれば、シンが戻ってくるまで起きていたかったが、気が緩んだのか、また、眠くなった。
まあいいか、と目を閉じる。
回復のための眠りは、あっという間にアスランを包んでいた。
「だからガナー装備の時だけ、今作ったサブルーチンに繋ぐんだ。そう、それだけで精度が違うはずだから」
ルナマリアのザクの前で、作業用のクレーンからコックピットに頭を突っ込むようにしているアスランを見つけ、シンはその側で立ち止まった。
片手で寄りかかっていたハッチから顔を上げ、そこでバランスを崩して、コックピットから飛び出した少女に支えられている。
「大丈夫ですかぁ」
「ああ。・・・後の調整は、できるよな」
「はい。あ、送りましょうか？」
「いや、いいよ・・・」
心底情けなさそうな声と共にクレーンが下りていき、その足元に佇んでいたシンに、ルナマリアが気づく。
「あ、シン！アンタ調整終わったの？だったらザラ隊長送って行きなさいよ！」
「わかった」
答えたシンの側まで下りてきたアスランは、げんなりしたように呟いた。
「・・・やめてくれ・・・・・・」
「だって隊長、足元危ないですよ。あんまりうろうろしない方がいいんじゃないですか？」
シンは、クレーンから下りるアスランに手を貸し、プログラムを調整するのに使っていたらしいキーボードを受け取る。
紛れもなく重傷だったその人は、しかしほんの数日寝込んだだけですぐにリハビリを始め、今はもう、折れた左手を吊ったまま、セイバーの代わりに乗ることになったザクの調整や、他人の機の整備に口を出している。
「だって動けるんだ。じっとしていられるか」
かなり、信じられない。
ナニモノだろうこの人は。
「でもっ、あの」
なんと言っていいかわからずに、口ごもってから顔を上げて。
「どう、ですか」
結局曖昧な問いを投げたシンに、アスランは笑って答えた。
「ああ。いい機体だよ。前に乗ったことがあるから勝手もわかっているし。動力が違うから駆動系は違うんだが、バランスのＯＳは前に乗っていた機体のが元になっているから動かしやすい。それにあのＯＳ、前、馬鹿みたいにプログラムができる奴と一緒に散々いじったから、どうすれば良くなるかもわかるし。だからさっきもルナマリアの機体、照準の甘さが・・・・」
「いえ、ザクじゃなくて、あなたのことです」
楽しそうにＭＳの話をする人を遮り、シンはアスランの左手にそっと触れた。
フラッシュバックする、力ない手足。
苛まれる体と、悲鳴。
しかしアスランは、少し困った顔をして、「大丈夫だ」と答え。
シンは、少し顔を歪めてから、手を離した。
「・・・ボード、返してきますから、ちょっと待っててください」
駆けて行くシンの背中を視線で追う。すると、そのシンとすれ違ったヴィーノが、コードの束を抱えたままアスランを呼び止めた。
「たいちょお、あんまシン苛めちゃダメですよ」
「は？」
「なんかアイツ、ちょっと最近カワイソウです」
コードを引きずって、整備兵がザクの足元に消えるのを、アスランは呆然と見送った。
「なん・・・なんだろうな」
セイバーを失い、シンにも怪我をさせて戻ったのだ、もっと風当たりがきつくなっても仕方がないと思っていたのだが、整備兵もパイロットも皆、むしろ以前より好意的に接してくれている。
不思議に思っていると、ルナマリアが教えてくれた。
アスランをなじったヨウランに、シンがマジギレして大騒ぎになったのだと。
『オレのこと庇ってーーーって、泣くわ喚くわ暴れるわで、大変だったんですよ』
それは大変そうだ、と、アスランはまるで他人事のように思った。
実際、アスランが眠っている間に起こった出来事だ。他人事と言えなくもないが、しかしそのおかげで「シンを庇って大怪我した隊長」のイメージがきっちりと固まって、みんなが優しくしてくれる。
それは有難いのだが。
今のは・・・なんだろう？
考えていると、ボードを返して、何事か話していたシンが戻ってきて。
「・・・・・どうしたんですか？」
「ああ、いや」
じっと顔を見すぎてしまったらしい。アスランは慌てて目をそらした。
「行きましょう」
ごく自然にアスランの手を取って、シンは格納庫を出ようとする。
アスランは、もう少し自分のザクをいじりたかったのだけれど、大人しくそれに従った。
アスランの手を引くシンの姿は、もう艦内では珍しくなくなっていて、特に、誰も気にしない。
まともに動けなかったときには、食事や入浴まで手伝っていたので、アスランも当然のようにそれを受け入れていたけれど。
確かに足元はまだ少し危ないが、もう、一人でも十分に歩ける。
いまだにシンはアスランに張り付いて、いろいろと面倒を見ようとするけれど、利き手はきちんと動くのだし、もうここまでしてもらう必要はないと思う。
だからアスランは、部屋で上着を取り上げようとしたシンを止め、右腕だけで脱いで見せた。前にも左腕を折ったことがあるから、このくらいならお手のものだ。
「・・・・ほら、もう大丈夫だから。シン、お前だって、俺に付いてないでやりたいこともあるだろう？」
さっき、ヴィーノが言っていたのは、たぶんこういうことだろう。
アスランだって、シンを苛めるつもりはない。
彼が側にいるのが、なんとなく心地よくてそのままにしてしまったけれど、他人に言われて気が付いた。
このままではいけない。
「今までありがとう。とても助かった」
脱いだ上着を放り、流石に少し辛くなっていた腰をベッドに下ろす。
完全ではないけれど、これももうすぐ良くなるはずだ。
まだ動かない彼にかける言葉を捜していたアスランは、シンを見上げるかたちになって、ぎょっとした。
「・・・っく・・・・・」
うつむいたシンの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちている。
きつく握られた拳は震え、噛み締められた唇から、唸るような声が洩れた。
「俺は、やっぱり、ダメですか」
「シン・・・・？」
「あなたの、側にいちゃ、いけませんか・・・？」
そう言って、泣いているシンが可哀想で。
あまり、人の感情を推し量ることが得意でないアスランは、一生懸命考えて、考えて。たぶん彼は、自分に罪悪感があるんだろうと気がついた。
そういえば、俺だけ大怪我だったし。
「座れよ。とりあえず」
自分の右側を指し示し、それでも立ったままのシンの手を引いて、無理に座らせて。
「シン」
「は、い」
詰まった声。
彼らしくない、と、アスランは思う。
「俺が帰って来られたのは、お前のおかげだからな。俺を連れ帰ってくれたのはお前だろ」
アスランを連れて、インパルスも奪い返して。
それができたのは、シンだからこそ。
「それに・・・お前の面倒見ようと思わなきゃ、死んでいたと思うから」
きっと、すぐに諦めたと思うから。
「ありがとうな」
言って、それでも泣き止まないシンの頭を撫でて。アスランは更に言葉を探した。
「軍人やってるんだ、あんなこともある。生きて帰ってこられただけでも良かったんだ。・・・でも、そうだな。あんな奴らが要るってことも、忘れないでくれ。俺たちが戦って、誰かを殺して、ああいうのを作ったんだ」
「それで・・・あんなこと、されて、当然だとでも、あなたは・・・っ」
「少なくとも、俺にはそれだけの業があるから」
「でも、だって、あんな・・・っ」
ああ、そうか。そういえば、シンにも。
「お前にも、嫌な思いをさせたんだったな。すまなかった」
あれは確かに嫌だったろう。立場は違うが、強姦されたようなものだ。
まだ若い彼には、辛かったに違いない。
「イ・・・イヤでしたよっ！俺あなたのこと好きなのにっ、なのに、あんな・・・・」
ぬめる感覚。
耳を突く悲鳴。
背筋をかける、快感。
あんな、イヤなことは。
家族を失って以来で。
白目まで真っ赤になった目から、涙がぼろぼろと落ちる。
ぎゅっと。アスランの腕を掴んだ、震える指。
その、力に。
いくら鈍いアスランにも、彼の言う「好き」が、どんな意味なのかは、わかった。
「え・・・」
『だって、俺、男』そう言いかけて、飲み込む。それはたぶん、シンもとうにわかっているはずだ。
「ご、めんっ、俺・・・」
だから、代わりに見つかった言葉は、謝罪がせいぜいだった。