翡翠の瞳 ３
ようやく開放された体は、まるで壊れた人形のようだった。
捩れた左腕が、その印象を強くしている。
それを一瞥した男が、シンに顔を寄せて、笑う。
「次を楽しみにしてろよ」
次はお前の番だ、ということだ。
その言葉に、震える。
「どっちにしたって、生きて返すわけないだろ」
「でももうアイツ死ぬんじゃねえ？」
「バケモノだぜ？もう一回くらい楽しめるだろ」
勝手なことを言いながら、男たちは出て行き。
がしゃりと扉が閉まり、ロックがかかる。シンは呆然とそれを見送った。
しん、と。
静まり返ったそこで起きていたことは、まるで悪い夢のようで。
それでも、床にうつ伏せ、転がったままぴくりとも動かない人が、そんな幻想を打ち砕く。
「ア・・・スラン、さん」
アスランは答えない
「アスランさんっ」
膝を付いて、にじり寄る。
関節が錆び付いたように軋んで、思うように動かない。
「アスランさん・・・」
壊され、汚され、打ち捨てられたその体。
こんなになっても、シンをかばってくれた人。
嗚咽がシンの喉を塞ぐ。
「・・・っく」
でも泣いている場合じゃない。
顔を近づけて、息をしていることを確かめる。
切れた唇からの吐息に安堵し、しかしその熱さに焦燥した。
骨折と傷で、熱が出ているんだ。
水・・・ない。たぶん脱水症状も起こしてる。
体、こんななのに。
ああ内臓、大丈夫なのかな。自爆して脱出もしてるんだ、その時の怪我だって。
これで、熱で体力を消耗させたら、本当に・・・
白濁の液が、アスランの前髪から、シンの頬を濡らす。
なんとか、しなくちゃ。
しかし焦るばかりのシンには、何も思いつかなくて。
ただ、乾いた唇を潤したくて、血の凝ったそこを舐めてみるのだけれど、シンの口腔も乾ききっていて、何の役にも立たない。
なんとか・・・しなくちゃ。
とにかく自分の手を自由にしようと、拘束用のワイヤーを、手首ごとむき出しのコンクリートになっている床に擦り付けた。
何もない拘禁室、他に、使えそうなものが見当たらなくて。
それでも、シンの腕が血まみれになる頃、やっと、それは擦り切れて。
「アスランさんっ」
やっと、その人を腕に抱きながら、シンは途方にくれた。
何もない部屋。ロックされた扉。動かない、アスラン。
自分の無力さに、また、涙がこぼれる。
「・・・っ、うぅ・・・・」
どうして、俺はここで泣くことしかできないんだろう。
あの時とは、違うのに。
あの時よりも、ずっと強くなったはずなのに。
どうして、また、何もできない・・・？
涙がアスランの頬にはたはたと落ちて、汚れを溶かし込み、凝る。
その頬が、ひくり、と動いて。
ゆっくりと、目蓋が開いた。
「アスランさんっ」
よかった。
これで自体が好転するわけではないけれど、ただただ純粋に、シンはアスランの意識が戻ったことを喜んだ。
「俺、どのくらい、寝てた・・・？」
かすれた、聞き取りづらい声が、しかし場違いなほど普通の問いを発する。
「少しだけ、です」
「そうか」
裸の胸が大きく喘いで、アスランは一度、痛みをこらえるように顔をしかめてから、その強い瞳をシンへ向けた。
『そのまま、動くなよ』
唇の動きだけでそう伝えられ、困惑を浮かべた赤い瞳に、アスランはやはり、声を立てずに続ける。
『丁度、監視カメラがお前の真後ろだ。俺がしゃべっているのがわからない』
相手の唇を読む訓練は受けている。この会話に不自由はないが、彼は一体、何を言おうというのだろう。
『お前、格納庫の位置、わかるな』
『はい』
『よし。隔壁閉鎖があるだろうが、位置がわかればなんとかなる』
体ごとシンに抱えられていた右腕がずるずると動き、シンの腰に触れた。
少し硬い感触・・・・え？
そこに、何か硬いものが当たっていることに、今頃になって気づく。
『IDカードだ。これでここの扉が開く。通路の扉も同じカードで開くはずだ・・・俺の知っている、同型艦と同じならな』
一瞬にして、全神経がアンダーの腰の後ろに挟まれた、薄く硬いものに集中した。
『どうやって、こんなもの・・・』
『ワイヤーを切られた時に、な。スリの真似事をしたのは、初めてだが・・・手先なら、器用な方だから』
折れた腕で、カードを掏ったというのだろうか。
そういえば、確かに腕を解かれた瞬間、左腕がおかしな動きをしたが。
そう、その後、その手を、シンの腰に・・・
凄い、ひとだ。この人は。
シンは、感嘆の眼差しでアスランを見つめた。
託されたカードに、まったく気づかなかった自分を恥じるが、それよりもずっと大事なことがある。
光明が見えた。
先ほどまでの絶望が、嘘のようだ。
アスランが、どのくらい眠っていたかを聞いた訳がわかった。カードを掏られた男が、それに気づく前に逃げなければ。
脱走は容易くはないだろうが、この艦に乗っているのは、皆ナチュラルだ。きっと、何とかなる。
『立てますか』
力なく投げ出された足を眺めやり、シンは無理だろうとあたりをつけた。
なら、抱えて行けばいい。
しかしアスランは、小さく首を振った。
『いや、俺は置いて行け』
信じられない言葉に見開かれたシンの瞳に、しっかりと自分の目を合わせ、アスランは冷徹に状況を判断した。
『立てても、たぶん、走れない』
足手まといを連れて逃げられるほど、この状況は甘くない。
しかしそれを、シンは認められなかった。
『ダメですよ、あなたを置いてなんか・・・』
シンを守って、シンを庇って。それで、動けなくなったのに。
それで、シンだけ逃げるなんて。
『俺を持って帰るくらいなら、インパルスをもって帰れ』
アスランの言い分は、おそらく、軍人として適切なもの。
『あの技術は、まだ連合には流れていない。技術の流出は、戦争を激化させるから』
人としても、間違ってはいないもの。
シンの腰にかかったままだった手に、少しだけ、力がこもった。
『でも、無理はするなよ。お前が無事に帰るのを最優先しろ』
やさしい、目をして。
『ほんとは、インパルスを渡さないのが最優先なんだがな。とにかくお前、生きて帰れ』
『あなた、は・・・・』
なんでいつも、こんな。
『大丈夫だ、利用されるつもりはない』
死ぬ気なんだと、わかった。
どこまでも強い翡翠の瞳が、シンを見据えて。
『行け』
それだけを、命令する。
シンは、弾かれたように立ち上がった。
彼の足が床を蹴る振動を、直接頭に感じながら、アスランは少し後悔していた。
もう一言、言えばよかった。
彼らを憎むな、と。
言っても聞かないだろうけど。
そう思って、やっと意識が闇に落ちかけたとき、だん、と耳元の床が震え、腹に大きな衝撃があった。
ひどい吐き気がしたが、既に戻す物などなく、けふ、と、咳だけが喉を通った。
シンは、格子に腕を突っ込んで、外からカードを通した。
軽い音がして、ドアが少し、開く。
それを確認してから踵を返し、アスランを抱き上げ。
そこを飛び出し、通路を塞ぐドアのキーのもカードを通した。
かしん、と、ロックの外れる音。
蹴破る。
何かに当たる。重い感触。
これは物じゃない・・・人間、二人。
そう思うと同時に、一人目を蹴り倒した。下ろした足を軸に、もう一人。
すぐに駆け出そうとしたが、慌てて止まって昏倒した連合兵から上着と銃を奪った。
上着でアスランを包み、銃の弾数を確認する。
「そんなこと、より」
自分を下ろせ、とまで、シンは聞かなかった。
「大人しくしててくださいっ」
それは図らずも、先ほどまでシンが言われていた科白だった。
安全装置を外し、アスランを抱えなおしたところで警報が鳴り出す。
監視カメラからの情報が行ったのか。
急がないと。
記憶にある道順をたどる。しかしそれは途中で隔壁に阻まれた。
「・・・・っ」
右通路から、銃撃。仕方なく、左へ走る。
落ち着け。アスランさんも言ってたじゃないか。位置さえわかれば何とかなる。
気持ちを静めて。
目を、開いて。
頭の中で、何かが弾けた。
背後と、駆け抜けた通路からの銃弾。
どこから、どんな角度で弾が飛んでくるのか、手にとるようによくわかる。
避けるために体が動き、反応速度は弾丸も越える。
どこに、何人潜んでいるのか、走っているのか。
見える前に、把握できる。
大丈夫だ、イケル。
シンは、記憶にある格納庫の位置を思い描く。確か、ここは・・・
「右」
腕の中から、かすれた声がした。
考えるより先に、体がその言葉に従う。
「そこ、左。この通路には隔壁はないけど、行き止まりだから、次の横道を左」
同型艦を知っているという人の言葉に従い、シンは走り、銃弾を避け、撃ち返し、そして。
「ここは！？」
位置的にはまっすぐでいいと思う。
ただ、このまま行けば敵にぶち当たる。二つ向こうの通路、右から、三人。
「左の突き当たりに、ハッチがある。そこから、出られるはずだ」
脱出するだけならば、それが最短だろう。しかし、艦は動いていない。基地か何かに停泊しているかもしれない。もしそうだったら、傷ついたアスランを抱えて、逃げ切れる公算は低い。
ならば。
「格納庫、どこですか」
「・・・右。たしか、２つ目のドア、格納庫のキャットウォークに出られる・・・」
「はいっ」
キイを撃ち抜き、蹴り飛ばしたドアは、確かに格納庫の作業用通路に通じていた。
見慣れた機体を、数メートル先に見下ろす位置。
ディアクティブモードのインパルス。
そのコックピットは開けられて、その前に作業用のクレーンが置かれ、数人が取り付いている。
格納庫の正規の入り口らしきシャッターの前には、武装した兵士が待ち構えていた。
偶然だが、裏をかいた結果になったらしい。
彼らの視線はこちらに向いているが、銃口は、まだ、シャッターを向いている。
それを瞬時に確認し、シンは、手すりを蹴って跳んでいた。
「どけっ」
ダァン、と、二人分の体重を叩きつけられたクレーンが揺れる。
作業員が一人、よろけて落ちたが、知ったことではない。
そのままコックピットに飛び込み、接続されていたコードを引き千切り。
ハッチを閉めて。
アスランがもがいて、シートと、側面のモニターの間に自分から落ちた。
どいてくれた、らしい。
「大丈夫ですかっ」
「ああ」
無事だけ、確認して。
インパルス、起動。
システムが立ち上がり、シンの瞳を照らし出す。
側のＭＳにパイロットらしき人間が駆け寄っているが、間に合うわけがない。
カタパルトは二つ。
しかし、右側に穴を開けている。
シンは、スラスターを全開にした。
「掴まっててくださいね！」
シンの言うとおり、シートを支えるシャフトを掴みながら、アスランはどこか、懐かしい思いに駆られていた。
MSに乗って、キラに敵わないと思った瞬間に似ている。
ああ、こいつは・・・
見上げたモニターが唐突に明るくなり、インパルスが艦外に脱出したのがわかった。
とたんに降りかかる砲撃をこともなくかわし、撃ち返し、加速し。
掛かったＧと、がくんと揺れた衝撃に、耐え切れず意識を失うその一瞬。
敵わないんだな、と、どこか穏やかに、アスランは思った。