ドアを開けて ３
大きく空ぶった腕に､重心を持っていかれた。
倒れこんだ先は､部屋の､中。
誰かの、腕の中。
「アスランさん！」
呼ばれた名。
覗き込む､赤い瞳。
「どうしたんですかっ！だ、大丈夫？！」
自分を、見ている。
涙が出た。
「っ、く・・・」
自分の肩に縋って泣き出したアスランに、シンはますますうろたえた。
シンの知っているアスランは､綺麗で強くて格好良くて。
少なくとも､こんなふうに泣いたりはしない人で。
それでも、まるで崩れるように預けられた重みとぬくもりは心地よくて。
その涙は、綺麗で。
「と、とりあえず、中、入りますか？」
アスランが、彼の部屋で別れたときのまま、ぐしゃぐしゃのシャツを引っ掛けただけの姿だと気がついて、シンは彼を驚かせないように、支えた肩を軽く押した。
大人しく従う体が､わずかに震えている。
ベッドに座らせても､アスランはシンの腕を掴んだままで、ほろほろと涙をこぼしている。
「すまない・・・すぐ、止まる・・・・」
涙を払った指先から、きらきら光る雫が落ちて､シンは思わずその手をつかまえて､濡れた指先にキスをした。
そうするとアスランはいっそう激しく泣き出してしまい、小さな嗚咽の洩れる肩を抱いて､シンは途方に暮れてしまう。
たぶん、追いかけてきてくれたってことなんだろうけど、どうしてここで泣いているかがわからない。
あんなことがあった後だから､抱きしめて慰めるのもためらわれて。
少し目の毒だから､シャツのボタンを止めてやり､後は､軽く肩を抱いてじっと待つ。
『どうしよう』が頭の中を回らなくなると､あたたかな体が腕の中で震えているのは､とても心地よかった。
シンの好意には､はじめは戸惑うばかりだった。
自分の何がいいのかさっぱりわからなかったし、彼の言い分はいつも訳がわからなくて。
それでも、幼馴染の面倒を見つづけていたせいか、甘えられるのは嫌いではなかったし、戦場を駆けた後には､誰かが側にいると安心する。
だから、求められるたびに勝手に強張る体が申し訳なくて、今日はあんなことをしてみたのだけれど、思い切り失敗して｡
傷つけて。
なのに。
ドアが開いて。
そこにいて。
俺を､見ていて。
「・・・っく・・・・・・」
それだけのことがこんなにも嬉しい。
「・・・・すまなかった。時間を、取らせて」
まだ気を許すと喉の奥が痙攣を起こしそうだが、それでもなんとか取り繕えるようになって、アスランはシンの肩から顔を上げた。
涙はほとんどシンの服に吸わせてしまったが、目をこするとまだ雫がついた。
「いえ。あの、大丈夫・・・ですか？」
覗き込んでくる赤い瞳に、また涙がこぼれそうになって何度も瞬く。
「ああ」
答えと共に、大きく息が吐き出され、いったん目を閉じて俯いてから、顔を上げる。
そうすると、もう、アスランはいつもの顔をしていた。
翠玉の瞳は、充血して泣いた後特有の濁りを帯びていたけれど。目蓋も目元も、いつもよりずっと赤くなっていたけれど｡
それでも、いつもの顔をして。
「お前が・・・嫌なんじゃないんだ。ただ、ちょっと・・・昔、嫌なことがあったから｡だから体が勝手に反応するんだ。それだけ・・・なんだ」
少し曖昧な微笑で、情けなさそうに、こんなふうに過去の失敗を語るのを見たことがある。
幼馴染を甘やかし過ぎた話、アカデミーで、試験前に熱を出してライバルに負けた話。
「ちょっと、嫌なこと、ですか？」
しかしシンの想像した通りなら、それはそんな比重のものではないだろうに。
「ああ。思っていたよりもトラウマになっていたらしくて・・・参ったな。これじゃあ、お前に嫌われても仕方がない」
仕方なさそうに、笑う。それはシンが一番たくさん見たアスランの笑顔。
「嫌いになったりしません！大好きです！！」
思わず出た声が意外に大きくて、自分で驚く。それでも、おかげで勢いがついた。
「そんなふうに泣くようなこと、ちょっと嫌とかそういうのじゃないでしょう！なんであなたはいつもそうなんですか、もう少し自分を大切にしてください！！」
真剣なシンの眼差し｡
ああ、また涙が出そうだ。
「ありがとう・・・」
「えっ、あ、あの・・・」
至近距離に、極上の笑顔。
シンの心臓が跳ね上がる。
「お前がいて、よかった」
そう紡いだ唇が、間抜けに開かれたままのシンのそれに触れた｡
それはやはり、触れるだけのキスだったけれど、シンはどうしようもなく感動した｡
「やっぱり、自分じゃここまでしかできないな」
そう言って笑う人が、それでも軽くシンの唇に、舌先で触れてみせる。
「なんだったら、縛ってやるか？痛かっただろう、さっきの。すまなかったな」
「え、えええええっ、できませんそんなの！」
どこまで自分に対して無造作なんだこの人は！
「だっ、だって昔、無理やりされたりかなんかしたんでしょう！なのにそんな真似・・・！」
ってああ、こんなデリケートな話をこんなところで持ち出してどうする俺っ！
益々混乱するシンに、一度落ち着いたらしいアスランは、いつもの調子を完全に取り戻している。
「いや、されたことに対しては、体が勝手に防御しようとしてるだけだから。縛っておけば問題ないと思うんだが」
問題なのはあなたの思考回路だと、シンは声を大にして言いたい。
「大ありですダメです・・・って、『されたことに対しては』？どういう意味ですか」
この際だから、聞いてしまえ。
そう思ったシンだったが、それに関しては、アスランは目に見えて口篭もった。
「あ・・・すみません」
やっぱり聞いてはいけなかったのかと、慌てて謝ったがもう遅い。
何かを逡巡していたアスランは、「君には話しておいたほうがいいな」とちいさく呟いてから、もたれかかった姿勢のまま、シンを見上げた。
「たぶん、されたことよりも、あの人、が・・・父が。その間じゅう・・・いや、後も、だな。・・・・一度も、俺を見ようとしなかったことの方が、堪えたんだと思う」
「父、って・・・」
シンは、オーブで失った自分の父親を思い出す。
優秀な技術者だったらしいが、お人よしで、母と妹には弱くて、時々理不尽だけどでもちょっと頼りになる・・・
だめだ、想像もつかない。
どんな奴だったんだ、旧最高評議会議長、パトリック・ザラ・・・！
「血のバレンタインで、母を失ってすぐだったから｡あの人も混乱していたんだと思うんだ｡息子を妻と取り違えるくらいに」
「・・・・」
シンはもう、言葉もない。
「その後、３日くらい放って置かれて・・・ドアがロックされていて、出られなかったのもまずかったんだろうな。そうか、だからさっき、お前がドアを開けてくれたとき、あんなに嬉しかったんだ」
まるで、他人事のように言って、照れたように笑う。
「アスラン、さん・・・」
シンにも、だんだんわかってきた。
この人は、自分自身に対してあんまり関心がないんだ。
それが、この人の生まれつきの性なのか、それとも今聞いたばかりの事情のせいなのかはわからないけれど。
だから自分を大切にしないし、自分のどこに傷があるのかもわかっていない。
何に傷ついたのかさえ、無関心で。
だから、シンの言葉は、行動は、彼自身が気づいていなかった傷を暴き立ててしまう危険がある。
どうしたらいいかわからない。
今度はシンが泣きたくなってきた。
それなのにアスランは、嬉しそうに笑っている。
「ドアが開いて、嬉しかった。俺がいることに、気づいてくれて嬉しかった｡・・・シンが、俺の恋人で、よかったよ」
今度は嬉しくて涙が出そうだ。
この人は、言葉ひとつでシンの感情を翻弄する。
「でも俺・・・きっとあなたを傷つける。守りたいのに｡今度こそ・・・守りたい、のに」
守る、ということが、ただ、殺させない、それだけを意味するのではないと、シンはもう知っている。
アスランを守りたいと、大切にしたいと、一生懸命考えたから。
あなたのおかげで。
なのに。
「俺はそんなにやわじゃない。・・・まあ、あれだけ醜態を見せた後じゃ、信じてもらえないかも知れないが」
傷ついても気が付かないのと、傷つかないのとでは、天と地ほども違うだろう｡
それでも、自分に身を預けたままの人が、本当に嬉しそうに笑うから。
「キスしても、いいですか？」
舌入れないから。
そう言うと、アスランは苦く笑って。
「入れてもいいぞ・・・ああ、少し待て」
アスランが、シンの肩に乗せたままだった頭を上げて、もう一度目をこすったところでドアが開いた。
「あ、レイ」
「・・・・・・・」
この場を流れる微妙な雰囲気に気づいたのか、レイはものすごく不機嫌そうだ。
「すまない、邪魔をした」
そう言って立ち上がったアスランが、ちらりとシンを見やった。
視線で通じ合えるなんてちょっと嬉しい。
「お・・・送ります」
それなのに、出たセリフはぎこちなくて、アスランもレイもやれやれという顔をしていた。