Date １
待ち合わせに指定されたのは、隠れ家的な佇まいの小さな喫茶店だった。
彼らの住む街の、駅の反対側にあったそこは明らかにコーヒー専門店で、どう考えても小学生と待ち合わせるのにふさわしい場所ではない。
それだというのに、夏の日を背にしてベルの付いたドアを開けた少年は、その店にしっくりと馴染んで蒼龍を呆れさせた。
「わざわざ来てくれなくても良かったのに」
慣れた様子で店員から今日のお勧めを聞きだして注文してから、椎名は蒼龍の傍らの紙袋をのぞき込みながら言った。
その中には、彼に貸してもらいたいと頼まれた、初歩の魔術書の類が、案外ぞんざいに入っていた。
「おやじさんのところに用があってね」
これは、少しだけ嘘だ。
正確に言うなら、地獄堂のおやじのところに、わざわざ用を作ったのだ。
「だから、あそこで受け渡しさせてくれればそれで済んだんだが」
「てっちゃんたちに、その本食べこぼしだらけにされてもいいんならな」
「おやじさんのところの本は、みんな綺麗だったように思うけどねぇ」
「ぱっと見はね」
そこで、注文していたコーヒーが来て、椎名は「ありがとう」と無表情なりの愛想を振った。
無表情でも、綺麗な顔をしているものだから、ウェイトレスは「ごゆっくり」と、営業スマイル以上の笑顔で下がっていく。
蒼龍は、彼の外面の良さに、少しだけ呆れた。
「・・・・どんなの持ってきてくれたの？」
ブラックのまま一口飲んで、椎名はまた、待ちきれないように紙袋をのぞき込む。
こんなところは子供らしいなと思いながら、蒼龍は周囲と手元に気を配りつつ、その中身を喫茶店の狭いテーブルの上に上げた。
彼からの注文は、西洋魔術の総論的なものと、東西かまわず風を使う魔術に関するもの。
「半分近く英語だけど、本当にいいのかい？」
彼が英語ならいいと言ったので、西洋魔術に関するものは、イギリスで手に入れたものが多い。
若かりし頃の蒼龍も、『英語ならなんとか』と思ったので、初歩的なものには英語が多いという理由もあるが。
「今時の小学生を馬鹿にすんな。辞書ひけば読める。だいたい、専門書なんておんなじ単語ばっかりだろ」
早速一冊を手に取って、椎名が言う。
まあ、彼ならそうだろうと思いながら、蒼龍は続けて、本を積んだ。
「あとは、ヘブライ語が１冊と、ラテン語が２冊」
「ソーちゃん・・・」
わざわざ、いつもは呼ばないあだ名を呼んで、椎名ははぁと大仰にため息を付いて見せた。
「ラテン語はともかく、さすがに俺も、まだヘブライ語はまだ無理だよ」
ラテン語はともかくなのか、このガキは。
そう心中突っ込んだ蒼龍は、それでもヘブライ語の本を手に取って、注意深くめくる少年に言った。
「ヘブライ語の辞書なら、おやじさんのとこにあっただろ。それに、本格的にこっちの本を読みたかったら、たぶん必要な言葉だと思うよ」
「だろうね。・・・ていうか、逆に『本物』なら読めるんだろうな」
「・・・・」
彼が言っているのは、間違いなく『ヒエロゾイコン』が読めてしまった件だろう。
いや、おやじの書庫に入り浸っている彼のことだ。他にも心当たりはあるのだろう。
さすがは、あのヴァレンタイン卿にスカウトされるだけの才ということだ。
彼らは、地獄堂のおやじに『力をもらった』と言っているが、恐らくおやじがしたのは『枷を外した』程度のことだろうと蒼龍は踏んでいる。
こういうものは、後付けできるものではなく、持って生まれるものなのだ。
そう、たとえば自分のように。
小さな手に大きすぎる本を抱えた椎名は、息を詰めるようにして異国の文字を追っている。
その視線が、明らかに文字列を追っているそれであることに舌を巻きながら、蒼龍は、少しぬるくなったブレンドを口に運んだ。
店内にはなにがしかのBGMがかかっているらしいが、それよりも、カウンターの向こうで豆をより分けているらしい、からからという音の方が耳をくすぐる。
基本、紅茶党の蒼龍でもわかるほど、適当に頼んだブレンドは美味しく、店自体に染み込んでいるのだろうコーヒーの香りが心地よかった。
そのまま、いくばくかの時間が経って。
少年の少し長めの髪が、さらりと白い耳朶から滑り落ちたのを皮切りに。
遠い国を見ていた瞳が、ふうっと上がって、ここにいる蒼龍を映した。
「・・・本なら、おやじさんのところにたくさんあるだろうに」
つかの間戻ってきた彼を捕まえるために、蒼龍はさりげなく口を開いた。
椎名も、つい夢中になっているだけで、本気でここで読み込むつもりはないはずだ。
このタイミングなら、拗ねさせることはあっても、怒らせることはないはずだった。
「たぶん、俺はおやじに急ぎすぎてると思われてんだろうな」
案の定、丁寧に本を閉じた椎名は、何かを誤魔化すようにコーヒーカップに手を伸ばした。
「私から見たってそうだ」
少なくとも、今回彼のために用意した本は、１１歳だった自分では、理解できないだろうものばかりだ。
しかし、彼は読んで理解してしまうだろう。
それは、蒼龍の買いかぶりではないはずだった。
「だいたい、何で西洋魔術と風の術に関する文献なんだい」
彼らがおやじから学んでいるのは、主に符術だと聞いている。
それならば、風の術はともかく西洋魔術は関係がないだろう。
「おやじんとこの本は、ディープなのは東洋系に偏ってるから。まあ、日本の本が多いから当たり前なんだけど」
どこまでディープな本が読めているのか。
空恐ろしいから聞かないで、蒼龍はあえて混ぜっ返した。
「何語だろうとかまわないのは、君くらいのもんだろうからねえ」
「ここまでだとは、始めるまで俺も思わなかったさ」
謙遜ひとつなくけろりと言い切って、椎名は積まれた本に目をやった。
「なのに、あっちの吸血鬼だの妖精だのがわらわら出て来やがるんだ。参謀としては、知識仕入れとかないと危なくってしょうがない」
表紙に描かれたこれ見よがしな生命の樹になんとなく納得しながら、「なら、風は」と流れのままに蒼龍は聞いた。
「ああ」と軽く応えて、椎名は本で狭くなったテーブルの上で指を組んだ。
改めて見ると、本当に小さな、子供の手だった。
「俺は、てっちゃんみたいに攻撃ができる訳でも、リョーチンみたいに結界がはれる訳でもないからね」
それはたぶん、彼らの前では、決して出ない。
いや、頼れる参謀としては、決して出してはいけない、本音。
「おやじは実践主義だから、その辺は自分で探っていくしかないけど・・・見つける前に、終わっちまう可能性が怖いから」
『終わっちまう』可能性を、常に考えておくのは、この業界で仕事をする上では当然のことだ。
しかし、彼は仕事でやっている訳ではない。
そんなものとは、本来無縁の子供のはずだ。
蒼龍は、なんとなくおやじが恨めしくなった。
どうして、彼らだったのかと。
そんなことは、今までの事件で解りきっているというのに。
「とりあえず、風の札が一番使えるからさ。取り急ぎってところだね」
椎名がコーヒーを飲み干した。
とうとう、砂糖もミルクも入れなかった。
「風と相性がいいってことは、情報と相性がいいってことだ。方向は間違ってないんじゃないか」
「まあね」
言葉とは裏腹に、そんなことはわかっている、といった様子で頷いて、それから椎名はつい、と蒼龍を見上げた。
「それでさ」
「・・・なんだい」
黒々とした瞳に不意をつかれてどきりとして、蒼龍はそれを隠すように、警戒の態度を取った。
というか、実際、彼が改まるとろくなことがない。
「俺、コレ関係はまだ疎いから。お礼って、いくらぐらいか相場がわかんないんだけど」
なんだ、そんなことか。
軽く脱力し、しかしどことなく寂しい思いとともに、蒼龍もコーヒーを飲み干す。
冷めきっているのが、少し惜しい味だった。
「いらないよ。君から礼なんかもらったら、後が怖い」
本音としては、彼にはそんなこととは関係なく頼って欲しかった。
しかし、彼がそうしないだろうということも、なんとなく、わかっては、いた。
「俺だって、アンタに借りなんか作りたくない」
むう、と、長く付き合ってやっとわかる程度の変化で、椎名がむくれる。
それが子供っぽくて、しかもそこから思い当たることがあって、蒼龍は軽く笑って言った。
「借りと言えば、一生返せないようなのがあったけどね」
「ああ、アレか」
それが吸血鬼の一件だと、そうして蒼龍の意図も、全てでなくとも解ったのだろう。
椎名は腕を組んだ。
「まあ、俺らのは、拝ん家の時のがそれに当たっちまうと思うけど」
そんなに、私に借りを作るのが嫌か。
今の今まで忘れていた件を持ち出されて、蒼龍はため息をついた。
「じゃあ、そうだな」
それから、気を取り直し。
「今日、これから付き合ってもらうっていうのはどうだい？」
椎名はいたずらっぽく笑った。
「デート？」
「ああ」
即答した蒼龍に、少し意外そうな顔をして。
しかし少年は、ニヤリと彼らしく笑って言った。
「いいよ」