夢
夢を、見ていた。
夢の中で自分は、まだ小さな子供で。
体を丸めて泣いていた。
痛くて痛くて、悲しくて苦しくて。
ただ、小さくなって泣いていた。
父の拳なのか。
隊長の銃弾なのか。
なにが痛いのかよくわからないまま。
ただ、痛い痛いと、泣いて。
泣いて。
泣いて。
朝、兵部を起こしに行くのは、真木の仕事だった。
いらんことをするためなら驚くほど早起きをするのに、そうでない時、兵部は基本朝寝坊だ。
そのくせ、寝坊をしておいて、子供たちと朝食をとれないと言って真木に当たるのだから、始末に負えない。
「・・・失礼します」
ドアをノックし、返事を聞かずにそれを開ける。
全くいつも通りのルーチンワークだ。
しかし。
ドアを開け、さて今日はどうやって起こそうか、と思案する間もなく聞こえた小さな悲鳴に、真木は慌ててベッドへ駆け寄った。
「少佐、少佐！」
兵部がうなされていることは、希なことではない。
そのために、様子がおかしい時などは、セックスなしでも同じベッドで寝ることもある。
しまったな、と真木は思った。
昨夜はそんな様子はなかったのに。
「少佐！」
もがくようにシーツを掻き、声を殺して。
それでも小さな悲鳴をこぼすその人の肩に手を当てて。
「少佐」
脅かさないように、しかし、悪い夢からは目覚められるように。
力を加減しながら、そっと揺する。
「・・・っ」
そうすれば、ぼろぼろと涙をこぼす瞳が、ふうっと開いて。
幾度か瞬き、溜まった涙を落とし切ってから、真木を映した。
「まぎ」
「はい」
いとけない様子で自分を見上げる、底のない瞳。
一体、どんな夢を見ていたのか。
それを聞いても、まともな答えは返って来ない。
「朝食の時間です。ユウギリたちはもう、顔を洗いましたよ」
だから真木は、努めていつも通りに言った。
兵部の瞳に理性が灯る。
何があっても強がって見せる、意地っ張りの理性が。
「朝ご飯なに」
「和食は、鯵の開きを焼いていたようです」
「ふぅん」
もう涙のない目を瞬かせると、名残の赤みも消えていた。
まだ少し瞼が腫れている様子はあるが、これも、すぐに生体コントロールで消してしまうのだろう。
「あー、汗でぐっしょりだ。シャワー浴びてから行くよ」
起き上がり、伸びをした体には、何もつけていない。
空調を利かせていても心配だけれど、もちろん、兵部は斟酌してくれない。
「一人で大丈夫ですか？」
「年寄り扱いするな」
そのまま、ぺたぺたと浴室へ向かう背中を見送り、真木はいつものようにタオルと着替えを用意する。
「早くしないと、みんな食べ終わってしまいますよ」
「その時はお前、一緒に食べろよ」
ひょこり、とバスルームから顔だけを出し、ニィと笑ったその顔は。
いつもの、兵部京介のものだった。
子供たちとの朝食に、少しだけ遅刻をした兵部は、それでも楽しそうに子供たちと語らいながらミルクを飲んでいる。
食事は、味噌汁と青菜のお浸しだけが減っていた。
食べるときには、ご飯のお代わりまでする人なのだ。よほど参っているのだろう。
鯵の開きは一見食べたように見せかけて、バラバラにしただけだと真木には一瞬で見抜けてしまう。
あれをご飯に乗せて、お茶漬けにしたら少しは食べてくれるはず・・・とシミュレーションをしたが一足遅く、兵部はその鯵とご飯を、食べ盛りの子供たちに分けてしまった。
戦前生まれは食べ物を無駄にしない。
「少佐は、食べないの？」
聡いユウギリにそう問われ、兵部はしらっと言ってのけた。
「昨日、夜遅くにおなか減っちゃってさ。ポテトチップ食べちゃって、あんまり減ってないんだよね。・・・真木にはナイショだぜ？あと、真似はするなよ」
「少佐、それダメー」
「ダメ」
「ダメ！」
「うん、もうしない」
昨日の夜を思い返す。
図書室で居眠りをしていたのを見つけて連れ帰り、風呂に入れて寝かしつけた。
その後真木は自室で仕事をしていたが、起き出していればわかるはずだ。
・・・本当に、寝る前は普通だったのに。
さらりとつかれた嘘よりも、様子の違いに気づかなかった自分への腹立たしさが先に立つ。
しかし、今はそれよりも。
「聞こえてましたよ、少佐」
「げ」
聞いていたのもわかっていたのだろうに、大仰に驚いてみせる兵部に、ため息混じりに言ってみる。
「そう言うときには、ミルクでも温めるから声を掛けて下さいとあれほど」
「だってお前忙しいしさー」
暗に、そういう夜には声を掛けろと言ってみるも、さらりと流されてしまった。
「誰のせいですか！」
「少佐、お仕事しなきゃダメ」
「ダメー」
あははーと笑う兵部に、また、子供たちのダメ出しが出る。
「そう言われちゃ仕方がないなぁ」
朝食のトレイをカウンターに跳ばし、兵部はかたんと立ち上がった。
「仕事してやるから、感謝しろよ、真木」
そうしてひゅぱっと一息に、自分と真木を、真木の仕事部屋へ跳ばしてしまった。
誰かと一緒に眠ると、悪い夢を見にくいということを発見したのは、葉を拾ってすぐだった。
寝入りばなにぐずっては、怪音波を飛ばす子供には悩まされたが、それは嬉しい発見だった。
そうして、子供は誰かと寝たがるものだというのも都合が良かった。
元々、子供が好きだった兵部は、もっと子供好きになった。
可愛いかわいい子供たち。
兵部から見れば、ヒゲ面になった真木だって、可愛い子供には違いない。
違いない、のに。
跳んで来た真木の部屋で、しかし兵部はころりと半分書類に埋まったソファに寝ころんだ。
真木もそれを咎めはせず、彼のために常備してあるブランケットを掛けてやりながら。
「今日は、一緒に寝ても？」
そう、聞いてくるからかなわない。
可愛い子供のはずの真木は、時々、兵部の保護者のような真似をする。
まるで、葉を拾って一緒に寝てやっていた兵部のような真似を。
「心配するな、今朝のはたまたまだ」
むっとした声が、我ながら子供っぽい。
「言い方を変えます」
真木は、銀色の髪を指先で払い、形の良い耳朶を露わにすると、そこへ唇を寄せ、低く、艶のある声で囁いた。
「今夜、部屋へ伺ってもよろしいですか？」
ぞくん、と、兵部の背筋に何かが走る。
「・・・このやろう」
耳を押さえて背中を丸め、頬を赤くして睨んでくる兵部は可愛かった。
これは、本来の目的を忘れないようにしなければ、と真木は自らを戒めた。
この人を一番始めに抱いたのは、この人を『殺した』男だという。
そうしてたぶん、その次は自分ではないかと真木は思っている。
慣れた振りをして初々しい反応を返す体からは、物慣れなさしか感じない。
「やっ、真木、そこ、舐めな・・・っ」
肉厚の舌に秘所を暴かれ、その先をこじ込まれて。中の襞までを舐められる恥ずかしさに揺れる腰は、しかし、男には誘っているようにしか見えない。
「ローションは嫌だと言ったのはあなたですよ」
「だって、ぐちゃぐちゃいうだろあれ！」
どうやら、潤滑液で濡らした時の音が嫌だったらしい。
真木は少し考えて、それから側の棚からローションではなく、細かい傷は放置しがちな彼のために、置きっぱなしになっている軟膏薬を手に取った。
これなら、そう水音は立たないだろう。
そう思ってそれを指に絡め、舐めていたそこに押し込むと。
「ふゃ、やーーーっ」
なんて声を出すんだろう。
熱くきつい襞で真木の指を食い締めながら、兵部は大きく首を打ち振るった。
「やだ、やだ、やだ」
そう言いながらも、兵部の中は嬉しそうに真木の指を舐めしゃぶり、とろりと濡れた眼差しで、男の視線を惹き付けて。
中をゆっくりと擦ってやれば、気持ちよさそうに喘ぎ悶える。
「あんっ・・・まぎ」
そうして、清楚なふりをして淫蕩な体の持ち主は、可愛らしくも淫らな言葉で真木にねだった。
「もっと、奥」
愛する人にそう言われて、滾らない男がいるだろうか。
自分のものにゴムを被せ、ひたりとそこに押しつければ、期待にふるりと震える体。
そのまま、望み通りに奥まで押し込めば、腕の中の体が綺麗に反った。
「あ、あーーーっ」
すかさず引き抜き、また、押し込む。
気持ちのいい肉の抵抗感は指の比ではなく、しかも、深く抱き込んでの行為だから、腕の中で跳ねる肢体の隅々までが真木のものだ。
「やっ、はんっ、ひ、い、うンっ・・・・」
可愛らしい声をこぼす唇を塞げば、この、可愛い鳴き声さえも。
過去の夢の向こうには、決して明け渡しはしない。
「少佐、しょうさ・・・」
呼べば、真木を飲んだ体がふるりと震えた。
きゅう、と背中に立てられた爪の先に、この人の限界を悟る。
本当は、もう少し、この体を味わっていたいけれど。
それでも真木は、腕の中の体を極めさせるために、動き出した。
こうして、疲れきった体と頭には、悪い夢が入る余地のないことを。
重ねた夜の中で、知っていたから。
真木の大きな手のひらが、そうっと額の傷を撫でた。
ここに触れることを、許しているのは真木だけだ。
真木の手は、兵部の体も心も、傷つけることはありえない。
この手は。
絶対、痛くない。
それは、彼が自分の『子供』だからだと、ずっと思っていたかったけれど。
眠りに落ちる、ひと呼吸前。
兵部はすりり、と真木の胸に額を擦り付ける仕草をして。
そこに残った傷跡の、ざらりとした感触でその胸を切なくさせた。
この人の、時を止めてしまった傷跡。
今でも、夢に見るのであろう絶望。
せめてその夢からだけでも、この人を守りたくて。
真木はその、随分ちいさくなってしまった体を抱きしめた。
永い旅路の果てに得た、夢の番人の腕の中。
泣いていた子供は、もう、いない。