海へ還る
「真木、手伝え」
大きなトランクを抱えた兵部に、目の前に・・・というか、膝の上にテレポートされて。
真木は、うぐ、と少し情けない声を上げた。
部屋へ持ち帰りの書類仕事がひと段落ついたので、コーヒーでも入れようと椅子を引いたところだったのだ。
ものの見事に書類は散らばり、ガコンという音は、パソコンにトランクが当たった音だろう。
中のデータの無事を祈る。
「っ、何を、ですか」
それでも律儀に聞いた養い児に、兵部は不思議と表情のない瞳で、半分デスクに乗り上げた、黒いトランクを見やった。
「こいつを海に還してやるんだ」
「これは・・・」
無骨なトランクは、見る者が見ればすぐにわかる、ESP処置をした特別製だ。
そうして、それは真木が手配して作らせたもの。
伊八号の脳を、コンパクトに格納できるようにしたものだった。
「もう、こいつに用はないからな」
ぶっきらぼうにそう言った彼が、あの夜、少しだけ泣いていたことを、真木は知っている。
同じベッドにいた真木にさえ隠された涙を思えば、彼が、戦友をもといた場所へ還してやろうと言い出すことは、自然に思えた。
「わかりました。では、カタストロフィ号の航路をコメリカ大陸へ向けましょう」
今いるのが足摺岬沖３０マイルほどだから、最速で・・・
その計算を、兵部はあっさり無碍にした。
「いらねえよ」
「・・・そのイルカは、あちらの生まれではないのですか？」
還してやると言うのなら、故郷の海がいいのだろう。
そう思った真木に、兵部は首を振って見せた。
「ううん、いいんだ。あいつも、あっちにはあんまりいい思い出ないだろ」
確かに。
あのイルカは、あちらの軍に生体改造されたのだったか。
「それより、ちょっと南に行こう」
兵部は、ぱたぱたとトランクの表面を叩いた。
もう、電源に繋いでも何の反応も返らないそれを、子供っぽい仕草で。
「あったかいとこのがいいだろ」
「そうですか？・・・ああ」
そこでやっと、真木は気が付いた。
南の海にはもしかしたら、九号（なかま）がいるかも知れないと。
その意図に、真木も頷く。
「では、南へ」
「ああ」
そう笑った人に口づけようとしたとたんに、周囲の風景が変わった。
腰掛けた椅子の感触も消え、中空の夜に放り出される。
とっさに炭素繊維の翼を広げられたのは、兵部の唐突さに慣れた真木だからこそだろう。
「ちょっ・・・今すぐですか！」
夜の海は、上下感覚すら危うくなる。
やっとのことでバランスを取った養い子に、トランクを担いで平然と浮いた兵部は、めんどうくさそうに言った。
「うるさい。わざわざカタストロフィ号ごと行く必要ないだろ」
「だからって・・・」
言いかけた言葉を、真木はため息にして吐き出した。
何かを思い立ったこの人を、止めることは不可能だ。
「行くよ。もっかいだ」
真木の抗議など意にも介さず、兵部は再びテレポートする。
今度はわかっていたので、感覚を見失うことはなく。
先ほどよりもぬるい風と、星の位置で、一度に随分と南へ跳んだのだとわかった。
遠くに漁港らしきかすかな明かりが見えるが、ざざん、と波の砕ける音も近い。
随分と遠浅の海のようだ。
その海の上で、兵部はぱこんとトランクを開けた。
現れたのは、何本ものコードに繋がれた人工の頭蓋。
それを、無造作にこじ開けて。
現れた旧い友人に、兵部は、優しかった人から受け継いだ発火能力でもって、ひと思いに火をつけた。
兵部の手の中に、ぽう、と明るい火が灯る。
月のない夜。
南の海の、空の上。
ざんざんと、海の鳴る音に見送られ。
それは、ほんの瞬くような光を灯し。
そうして、灰になって。
ぬるい風に舞って、海へと還って行った。
たった二人の見送る、瞬くような葬送。
それでも、彼は満足だろうか。
あたたかな海に還り着いて。
兵部の顔は、夜目にも白く。
その面に表情はない。
いつも表情豊かな兵部が、こうして無表情を装うのは、泣きたいときだと知っている。
文句を飲み込んでいた真木はむしろ、自分を一緒に連れてきてくれたことに、感謝するべきなのだと思い知った。
こんなとき、この人を一人にしないで良かった。
真木ならば、一緒でも良いと。
思ってくれて、良かった。
空に浮いたトランクを炭素繊維に巻き込めば、気づいた兵部が荷物をすべて真木に預けた。
身軽になってはじめて、花でも持ってくれば良かったかと思ったけれど、それはまた、後でもいいだろう。
ざん、ざん、と、遠浅の海が鳴る。
耳元で鳴る風の音を懐かしいと思うのは、彼の遺灰混じりのそれだからだろうか。
もうすぐ僕も、そっちへ行くよ。
いろいろ文句もあるだろうが、それは、そのとき聞いてやる。
「帰りましょう」
真木の手が、兵部の肩にかかった。
仰け反って見上げれば、いつも通りのむさい髭面。
それに、なんだか安心する。
「うん」
頷くと、兵部はぱちんと指を鳴らしてテレポートした。
もうすぐ僕も、そっちへ行くよ。
でも、それまでは。
帰り着いたのは、元の真木のデスクではなく、兵部の寝室だった。
まるで当然のようにベッドに引きずり込まれた真木は、残った仕事を先送りにして。
主の、寂しさを埋めることに、没頭した。