冷たいと、痛い
吐く息が白い。
埠頭の明かりに、どんよりと光る雲が、低い。
時折、海から吹き付ける風が、湿気を含んで、より、冷たい。
これは降るな、と、森次は思った。
思って３歩ほどで、ちらり、ちらりと。
小さく軽いものが舞い落ちるのが、見えた。
コートの襟を上げる。
白い息を吐き出す。
それでも歩調は緩めずに、ただ、目的の場所へと足を進める。
手足は、もうだいぶ冷えている。
しかし、体の芯には、まだ少し、熱がくすぶっていた。
これは、彼の。
玲二の親友の。
玲二の姉を殺した男の。
桐山の、与えた、熱。
白い息を吐く。
舞い落ちた雪が、風に浚われて視界を横切る。
そのひとひらが眼鏡に当たって。
それを、指の背で拭い取る。
雪。
思い出すのは、幼い頃、めったにない大雪の中、桐山と遊んだ記憶だった。
赤くなった指で雪玉を作り、冷たすぎて痛いくらいだ、と笑った。
その、理解できない言葉と眩しい笑顔。
その印象ばかりが、先立つ記憶。
「冷たいと、痛いか」
吐いた言葉は白く変わる。
それを教えてくれた英治を。
自分はやはり、憎んでいるのだろうか。
これからしようとしていることは。
ただの、復讐の仕上げに他ならないのだろうか。
自分に。
誰かを救うことなどできないと、もう、とうに知ってはいるのだけれど。
赤い指。
赤い血。
赤い瞳。
赤い、あかい・・・
赤い光が、明滅する。
運河を横切る橋を示す信号灯。
目的の、公園近くまで来ていた。
視力矯正のために眼鏡が必要だった頃には、決して見えなかっただろう距離に、少年の姿が見て取れる。
大きな袋をいくつも下げて。
その姿は、なぜだか森次にはひかって見えた。
私は彼に、復讐の片棒を担がせようとしているのだろうか。
あの、自称正義の味方に。
彼が立ち止まる。
落ちかけた袋を引き上げて、また、こちらに歩いてくる。
雪に気づいたのだろう、空を見上げて。
少し、歩調を早めて。
この距離でも、袋を掴んだ指の細さまで目に入った。
そうだ。
彼は、あの頃の私たちと、同じくらいの年齢なのだ。
あの頃。
今よりも、もう少し世界が単純だった頃。
単純だと思っていた頃。
取り戻せない、時間。
森次は、一度、目を閉じた。
街明かりの残像が、赤く滲んで揺らめいた。
この赤は、血の色だという。
瞼を流れる血の色が、透けて、見えているのだという。
指先に、雪が落ちた。
ただ、冷たかった。
冷たいと、痛い。
その、本当に意味を、自分が理解することはないだろう。
それでも。
冷たくなった友達の指を、あたためたいと思ったことも。
冷たくなっていく姉の体を、あたためたいと思ったことも。
その、どちらの記憶も、森次の胸を刺して、痛い。
森次のわかる痛みは、これだけ。
胸を刺された姉は、きっと痛かっただろう。
しかし森次には、その痛みは想像することしかできない。
冷たい指先。
冷たい、体。
冷たいと、痛い。
その事実（コト）だけは、知っているのだけれど。
目を開ければ、大きな紙袋をいくつも抱え、よたよたとこちらへ向かう正義の味方。
まるで、あの頃の自分のように、これから起きることも知らず、ただ、まっすぐに。
しかし、彼が自分と違うのは・・・
かさりかさりと、彼の持った袋が鳴った。
それを見やる少年の、熱のこもった大きな瞳。
森次はまたひとつ、息を吐いた。
視界が白く濁り、一瞬、少年の姿を隠す。
自分の中に、力を感じる。
あの頃とそう変わらない、独りよがりな力だ。
準備はいいか？と、その力に囁くと。
応えた青い波動が、冷えた指先を熱くした。
ぱたぱたと、少年の足音が近づいてくる。
彼の足音に。
彼の持った袋の揺れる、軽い音に誘われるように。
何故だか、森次の足も軽くなった。
悪いな、早瀬。
自然と、口元に笑みが浮かぶ。
この笑いは、彼をひどく苛立たせるだろうと思いながら、そのまま足を進めていく。
しんしんと、雪が降る。
≪痛いほどの冷気≫が、ほんの少しだけ、緩んで。
遠くで、赤いイルミネーションが、輝き始めていた。