月と水 ４
残業から帰ってリビングのドアを開けると、ソファに兵部京介が転がっていた。
「だから！何でここに来る！？」
幾度も繰り返された問いに、彼は全く悪びれなかった。
「だから、ちょっと休ませろって」
ひらひらと手を振って、兵部はけろりと言い放つ。
「折れた足繋いだんだけど、炎症治まんなくて痛てーんだよ」
「帰って治療しろ！」
しかも、また理由が違う。
毎回毎回、何やってんだこいつは。
皆本は頭痛を堪えながら、鞄を置いてネクタイを緩めた。
その様子を気配だけで感じ、兵部は苦しい息を吐いて目を閉じる。
しかしすぐに声をかけられて、うっとうしそうに眉をひそめた。
「ほら」
「・・・え」
嫌々開いた目の前にあったのは、月明かりに揺れるグラスの水と、二種類の錠剤の入ったシートだった。
「水と、痛み止めと炎症止めだ」
ぱちぱち、と瞬きをした兵部の表情は、まるで年相応に・・・いや、肉体相応に、幼く見えた。
しかしすぐに、その表情は消されてしまい、いつもの人を食ったような笑みが浮かぶ。
「ああ。こっちの薬との相性わかんないからやめとくよ」
内ポケットから引き出された先日と同じシートに、こっちもかよ、と呟いて。
「それ、何なんだよ」
「さあ、なーんだ」
おっくうそうに起きあがり、グラスだけを受け取った兵部は、ほんの少し逡巡してから、そのシートから錠剤をいくつか押し出した。
あまり飲むと効かなくなる、と、言っていたのを思い出す。
眉をひそめた皆本の前で、先日よりも多く、ざらざらと手のひらに落ちたそれを水で流し込んだ兵部は、無理の見える顔で、それでもニヤリと笑って見せた。
「いちお市販薬だぜ？裏ルートにしか流れてないけど」
「それ市販薬じゃねえよ！」
突っ込んでから、空になったグラスを取り上げる。
ほとんど一息に飲み干されたそれに舌打ちし、もう１杯入れてやれば、兵部はまた、少し驚いたような顔をして、しかし大人しくそれを受け取って、喉を潤した。
「ったく、薬効いたら帰れよ！」
「えー」
そう言いつつも、先日の様子を見れば、朝まで治まらないのはわかっている。
仕方がないから、今日も部屋へ連れて行くしかないだろう。
しかし前回のこともある。寝起きを警戒するよりも、自分は居間のソファで寝た方が安全だろうか。
いやしかし、子供たちに見つかると面倒だ。何より兵部を見張らずに置いておくのも不安過ぎる。
「ったく、なんでこんな・・・」
思わず漏れたぼやきに、くくっ、と無理矢理押し出したような嗤いが重なった。
無理するくらいなら嗤うな。
「だってさー」
軽い口調で出された声は、それでも息が切れている。
だから、そんな辛いんなら、仲間に迎えに来させるなりなんなりすればいいものを。
呆れた皆本の耳に、苦しげな割には、ひどく甘い声が響いた。
「ここ、クイーンいるじゃん」
「は？」
月明かりに、ほのかに浮かぶ白い顔を見下ろして、皆本は思わず息を飲んだ。
夢見るような、わずかに微笑むような。
それは、一言で言えば。
幸福そうな、顔。
しかしそれは、すぐに消えて。
「お前もいるから、差し引きマイナスだけどね」
ニヤリ、といつもの嗤いがそこに浮かぶ。
「なら来んな！」
そう言い捨てた皆本は、部屋へ運ぶために、兵部の妙に軽い体を抱き上げた。
なんだかんだと言いつつも、兵部が薫に注ぐ愛情は本物だと、皆本も認めざるをえない。
それが、どういった愛情か。
それは、定かではないのだけれど。
・・・少なくとも、男女のそれではないことは、皆本にもだいたいわかっていた。
それは、孫に注ぐ祖父の愛情のような。
いや、それよりも。
ここに来ても、兵部は薫に会ってはいかない。
実際に会いに来るときには、厄介ごとを抱えて来る時だけだ。
だから、こうしてどこか痛む時には。
こうしてただ、側で目を閉じている。
触れることはしない。
声をかけることも、会うことさえ、めったに。
それは、既に崇拝ではないか。
手の届かない何かに、捧げる愛ではないのか。
皆本は、薫のぬくもりを知っている。
頭を撫でてやるとどんな顔で笑うのか。
叱るとどんな顔で怒るのか。
大ざっぱに見えて意外と人のことを見ているだとか、それでも思い込んだら一直線で余所が見えなくなるだとか、最近女の子らしくなったけれども、どうしてもオヤジが抜けてくれないだとか。
そんな彼女を知っている。
だから、あの子はそんなふうに、遠くに置いて愛する存在ではないと。
皆本はそれを、知っているのに。
とさ、とベッドに下ろした彼を、少し長く見すぎてしまったせいだろう。
「なんだい？」
ひょい、と小首を傾げた兵部は、すぐに嬉しそうな笑顔を作った。
「あ、する気になった？」
する、の意味を取るのに、皆本は少し時間がかかった。
「なるか！」
何でコイツはこう、人の嫌がることを的確に！
「じゃあ、やっぱ殺っちまおう」
「こらー！」
薬が効いてきたのか、兵部の言葉は、先ほどよりもずっと滑らかになっている。
だから、余計に手に負えない。
「ああ、そうだね。お前はきっとそういう奴だ」
ククッ、と、まだ痛む胸を喘がせないよう、兵部は息を詰めて無理矢理嗤った。
こいつは、自分が勝手に重ねているだけで、自分の翼を折った奴とは、きっと何もかもが違うのだろう。
でも、それを認めてやるのはなんだかとっても悔しくて。
悲しくて。
何よりも。
何故、この手ではなかったのかと。
そんなことを、一瞬でも考えてしまったことに、酷く腹が立ったから。
だから。
兵部は、のぞき込む皆本の眼鏡の奥の瞳を、無理に作った笑顔で見上げた。
「ほんっとうに腹が立つ。・・・だからそのうち」
よく、あざといと言われるそれは、しかし皆本にはひどく綺麗に見えた。
そうして、皆本の与えた水に濡れた唇が。
ふうわりと開いて、囁く。
「おまえを、ころしてやるよ」
その声は。
まるで、月より滴る蜜のごとく。
愛を囁くかのごとく、甘かった。
終