月と水 ３
残業から帰ってリビングのドアを開けると、ソファに兵部京介が転がっていた。
「だから、おめーは！」
皆本は声を荒げかけ、それからぐうっと声を低めた。
「薫が血の匂いに気づいてたぞ」
「うそ。やっべー」
黒目がちの目を見張った兵部は、気をつけなきゃな、と小さくぼやく。
「血は止めて来なきゃダメか」
「止めても来んな！」
脊髄反射で言い返してから、皆本は兵部の様子を観察した。
今日はソファに血はついていないようだが、夜目にも白い手が、学ランの胸のあたりを掴み締め、息が異常に上がっている。
「おい・・・」
今日は何なんだ、と言う前に、闇色の瞳がつい、と皆本を見上げた。
「・・・水」
「僕を使うな」
言うと、乾いた唇が、ふ、と笑んだ。
まだ子供と言っていい面に、老成した笑み。
それを苦々しく見下ろして、皆本はキッチンへと向かった。
コップに入れるのは水道水にしてやろうかと思ったが、ボトルに残ったミネラルウォーターが、丁度あと一杯分だったことを思い出し、仕方なしにそれを注いで渡してやる。
透明なコップにゆらゆらと光る水を、ゆるりと起きあがった兵部は、少し目を細めて受け取って。
「うー」
小さく唸りながら、学ランのボタンをいくつか外し、内ポケットから錠剤の閉じこめられたシートを取り出した。
「あんま飲むと、効かなくなるんだけどな・・・」
ぶつぶつとぼやきながら、親指を使って一気に４〜５粒を押し出し、そのまま口に押し込むのを見て、皆本は眉をひそめた。
何の薬かは知らないが、そんなふうにいくつも飲むものには見えなかったからだ。
「・・・おい」
普段は詰め襟で見えない喉が、薬と水を通すためにとくりと動く。
コップの底に少しだけ、水を残して一息つき、それを一度、目の前で揺らしてから飲み干して、兵部はそれを放り出し、ころりとソファに横になった。
「うぇ・・・」
そのまま、胸のあたりを押さえ込み、学ランの胸の生地を引っ張るものだから、白い喉が月の光に照らされて、青白く病的な色を示している。
一瞬、賢木を呼ぼうか、との考えが浮かび、しかし皆本は首を振ってそれを払拭した。
呼べば、こいつはどんな無理をしてでも姿を消すだろう。
それよりも。
「それ、朝までに動けるようになるのか」
時刻は午前を大きく回っている。
子供たちが起きてきて、こいつがここに転がっていると困るのだ。
過去２回は、確かに姿を消していたけれど、今回は前よりも、酷いように見えた。
「わかんね、え・・・」
兵部の足が、ぐっ、とソファの背もたれを蹴った。
そのままぶるぶると震えているのは、痙攣を起こしているのではないだろうか。
しかし、皆本にできることはない。
だから。
皆本は、用心深く、しかしできるだけ乱雑に、ソファに転がっている体を抱き上げた。
思ったよりも軽くて、びっくりした。
もっとびっくりしたのは兵部の方だ。
痛む心臓が跳ね上がり、とっさに歯を食いしばって声が漏れるのを押さえるのに精一杯で。
念動力で、皆本を吹っ飛ばすまで、気が回らない。
うっすらとそれを光らせていた、月の光を失って、闇色の瞳は、本物の闇を湛えて皆本を見上げていた。
「薫たちが起きてきて、お前がいたら困るんだよ」
そうぶっきらぼうに吐き出すと、皆本は兵部を抱いたまま、自室へ続くドアを器用に開けた。
そうしてわずかの逡巡の後、ベッドの上へと放り出す。
「・・・っ」
とたん、竦んだ体に少しだけ後悔したが、顔を上げた兵部が、無理がありありとはいえニヤリと笑ったので、それをすぐに打ち消した。
「や、やっさしー」
「寝てろ」
そうして、そのまま奴の上に布団を被せると、皆本は眼鏡を外し、兵部に背を向けるようにして、同じベッドに潜り込む。
どうせ、気にするだけ無駄なのだ。
明日も仕事だ。後は、朝になってこいつがいなくなっていることを願うのみだ。
背中の兵部は、そのまま、しばらくぶるぶると震えていたのだが、やがて薬が効いてきたのだろう、ゆっくりと静かになった。
そのことに、ほっとしてしまった自分を自覚して、皆本は布団を掴み締めた。
わかりたくないが。
わかりたくはないがああわかったよこんちくしょう。
僕は、こいつが心配なんだ。
いつもなんだか無茶ばかりして、そのくせニヤニヤ笑って無理をしてでも自分をからかいに来る、こいつがやたらと心配なのだ。
薫たちといい、こいつといい、どうして高レベルエスパーって奴らは、自分の欲求に正直で・・・その欲求のためになら、どんな無茶でもしてしまうんだ。
そうして。
どうして自分は、ここで、心配していることしかできないんだ。
疲れた頭に、出口のない思考は意味もなく巡り。
皆本は、ゆるゆると眠りに落ちた。
翌朝。
皆本は、腰のあたりがもぞもぞするのに目が覚めた。
朝、ごくごくたまにある感覚と、プラス何か。
ええっと、そうだ、何か。
何か、あったような・・・
疲れの取れ切れていない頭を無理矢理回し、引っかかっている「何か」を引っ張り出そうとして。
それから、慌てて飛び起きた。
背中にあったはずのぬくもりは既になく、そうして。
「てめ、何してやがる！」
大声を出さなかった自分を誉めてやりたい。
かぶっていたはずの布団ははぎ取られ、ズボンと下着は膝まで引き下ろされて。
半ば勃ちかけたそれに、兵部の指がかかっていたのだ。
ズボンが半端に引っかかった足をばたつかせると、それから手を離した兵部は、しかしもう片方の手で掴んだベルトは離さずにさらりと言った。
「ん？宿代？」
「いらんわー！」
今度こそ、声が大きくなって慌てて口を閉じる。
それから、必死になってベルトを取り返し、ズボンを引き上げた。
「ちぇー」
兵部も、本気で取り返しには来ない。
しかし本当に残念そうに舌打ちをして、ぽふんとその場で丸くなった。
その反応に、思わずのぞき込んだ顔色は、ぶっちゃけ悪い。
まだここにいるということは、出ていく元気まではないのだろう。
居間に置いておかなくて、本当に良かった。
「お前、ロリコンじゃなくてホモだったのか」
とりあえず距離を置くためにベッドを出て、ついでに皺になったスーツを着替える。
疲れて帰って、スーツのまま寝てしまうことはよくあるので、換えのスーツが用意してあるのはご愛敬だ。
皺になったやつは、吊しておけば大丈夫。
「あのなぁ」
その様子を横目で見ながら、ベッドの上で猫のように丸くなったまま、兵部は答えた。
「同性としかセックスできない奴らと一緒にするなよ。僕は男でも女でも、どっちもＯＫなんだから」
「余計悪いわ！」
声を抑えて叫んだところで、目覚まし時計が鳴った。
「っと」
それを止め、ネクタイを締めながら、なんだかしっちゃかめっちゃかになったベッドを見下ろす。
ひっくり返った布団と皺だらけのシーツと、ベッドの端で丸くなっている、学ランをぐしゃぐしゃに着崩した男。
もう訳がわからない。
「出て来んなよ！」
「はいはい」
とりあえず忠告すれば意外に素直な答えが返り、しかし兵部はつい、と白い指と視線だけを上げて、皆本をゆび指した。
「てゆか、ソレどうすんだよ？」
指したのは、当然皆本のソレだ。
今更ながらに赤面した皆本は、ひっ掴んだ布団を被せることで、その指や視線ごと、そこにあり得ない物体を視界から消し去った。
「どうもしない！」
抜いてしまった方が早いのだが、むしろ今はそんな時間がない。
朝食を作りながら、ホッジ予想のことでも考えていれば、なんとか治まることは経験上知っている。
子供たちが起きてくる頃には、いつも通りの顔をしていることができるだろう。
とりあえず、今朝は紫穂には触られないようにしなければ。
そう思いながらドアを開け、皆本は兵部を置いてキッチンへ向かった。
朝食は、少しだけ多めに作っておいた。
台所に出しっぱなしにしたそれに、兵部が気づくかどうかまでは、皆本の知ったことではなかった。