月と水 ２
残業から帰ってリビングのドアを開けると、ソファに兵部京介が転がっていた。
「・・・・・」
二度目のシチュエーションに、皆本はなんだか途方に暮れた。
前回と同じく、管理官を呼ぼうにもまず起きてこない時間だし、捕まえたところで外務省に怒られて釈放させられるのがオチだ。
だからといって、ここに放置しておく訳にもいかない。
ていうか。
「なんでここに来る」
聞けば、暗がりの中から声だけが返ってきた。
「言っただろ、ここ耐ＥＳＰ措置してあるから居心地いいんだって」
「自分ちのが居心地いいだろが」
「だから、ちょっと休んだら帰るよ」
何なんだこいつは。
この間は確かに無害だったが（その後チルドレンに問いつめられたのは害の内に入らない。いつものことだ。）、今度もそうとは限らない。
今夜もここで寝るか・・・と、最善とは言えないが、とりあえず今取れる策を取るしかないだろうとのろのろとソファに近づき・・・そうして、兵部の転がっているところだけ、ソファカバーの色が変わっていることに気がついた。
「おいお前！」
冬用にあつらえた厚手のソファカバーは、あたたかみのあるアイボリーなはずだった。
それが一部だけ、夜目にもわかるほど黒々とした色に変わっている。
窓からの光にてらてらと光るそれは、何かの液体のようだった。
かすかに感じる有機物の匂いは、この仕事に就いてから、何だかわかるようになったもの。
血臭だ。
「ああごめん、ソファカバー汚した。後でもっといいの届けさせるよ」
しかし兵部はいつものからかうような声でそう言って、白い顔で皆本を見上げた。
襟まできちんと止められた学ランは、いったいどこから出血しているのか、よくわからない。
「そういう問題じゃないだろ！」
ソファの背もたれを掴んだ皆本は、月明かりにぼんやりと光る白い顔をのぞき込んだ。
わずかに歪められた目元と唇。
痛みを堪えるその表情は、しかし確かに笑みの形を作っていた。
「これは持って帰るから心配するな。下まで染みてないし、これ剥いじまえば女帝だって透視めないだろ」
畳みかけるようにそう言われ、皆本は言葉を失った。
今までこいつと会話が噛み合ったことはないが、ここまで酷かったこともない。
しかし、何が噛み合っていないのか。
それを自覚することを、皆本の中の何かが、激しく拒んでいる。
「あー、くそ、痛ぇ」
そうこうしているうちに、兵部が小さく呻いた。
思わず漏れた、といった風情の声に、皆本の眉が寄る。
「・・・見せてみろよ」
救急箱の位置は明かりを点けなくてもわかるが、手当をするなら点けないとダメだろう。
子供たちが起きて来なければいいが・・・
そんなことを考えながら、ソファの側に膝をつく。
血の匂いが強くなった。
「何？手当してくれんの？」
兵部が目を見張る。
「仕方がないだろう」
皆本の声は低い。
よく見れば、肩のあたりの生地が裂けている。
その下のシャツの色が見えず、黒々と濡れているところを見ると、相当酷いのではないだろうか。
そう皆本の経験が囁き、とりあえず上着を脱がせようと手を伸ばす。
しかし、その手はひらり、と。
力も入っていないような手に、軽く流され逸らされた。
その手は、柔らかいくせにひやりと冷たく。
皆本の胸をどきりとさせた。
「止血もしたし、やばいとこはだいたい塞いだ。やってもらうことはないよ」
兵部の声は軽く、いつもの嘲るような調子もない。
ただ、闇色の瞳が闇の中で。
遠い月の影に、青く光っている。
皆本は、その光から目を逸らした。
確かに、こいつは生体コントロールの達人だ。
友人のような医者でもない自分の、出る幕ではないだろう。
そう思い直して立ち上がった皆本に、兵部は思い立ったように声を上げた。
「ああ、でも」
軽い調子を作り損ねたのか、声が少し上擦っている。
やっぱり無理してんじゃねえかこの馬鹿、と。
それでも変わらない、人を小馬鹿にしたような顔を見下ろすと。
「水、くれないか？」
やはり乾いた唇を、ちいさく歪めて彼は言った。
「自分で汲んで来ればいいだろ・・・」
そう言いつつも、皆本は台所へ向かった。
青く光る水に、ほんのりと笑うその顔に。
少しだけ見とれてしまったのは、なかったことに、した。
「あれ？皆本、指かなんか切った？」
翌朝。
サイコキネシスで、スクランブルエッグの皿を運びながら薫が聞いた。
「いいや、べつに。何でだい？」
近年希にみる名演技だと、皆本は自画自賛した。
声に欠片の動揺も入っておらず、鈍い薫はおろか紫穂ですら、怪しんでいる様子がない。
「なんか、血の匂いがする・・・」
ぶつぶつ呟く薫に、葵がへこんと小首を傾げる。
「ん〜？、トーストの匂いしかせえへんけどな？」
そう言う彼女は、トースターからトーストを出している最中なのだから当たり前なのだが。
「血の匂いがすれば、私がわからないわけないと思うんだけど」
その紫穂の言葉には、なんだかよくわからない説得力があった。
「紫穂が言うとめっちゃ怖えーよ。・・・気のせいかな」
きょろきょろとあたりを見回した薫の視線が、ソファへ向いた時には一瞬どきりとしたものだったが、洗濯のために二組、色違いに揃えたブラウンのソファカバーにも、特に不審は抱かなかったらしい。
夜中に皆本がいきなり掃除や模様替えをしだすのは、わりとよくあることだった。
「いいから薫、それ下ろしてさっさと食べろ、遅刻するぞ」
浮いたままの皿を指さすと、薫はへいへい、とそれをテーブルに下ろした。
「いっただっきまーす」
いつもの朝食の風景の向こうに。
今朝方まで兵部のいたソファがあるのが、皆本には、なんだか不思議だった。