月影
ぱしゃり、と。
空を舞った水の塊が、月影を映したかと思うと、闇に当たって砕けて消えた。
かたち良く隆起した筋肉の上を透明な流体が滑り落ちると、白い肌がそのままに月光を弾いて、とてもとても綺麗だった。
黒髪から滴り落ちる水滴が、きらり、きらりと光っては、影の中に消える。
鍛え上げられた腕がまた伸び、柄杓いっぱいに瓶の水を掬うと、今度はそれを被ることはせずに、彼は薄く開いた口元へともっていった。
嚥下する喉が、また、白く光を弾いて。
そのさまに、こくり、と、柊の喉が鳴った。
葦原のさざめきも、虫の声も聞こえない静かな夜だ。
その音は、虎狼将軍と異名を取る男の、獣並みの耳に届いたのだろう。
「・・・飲むか」
ゆらり、と、柄杓に掬われた水が月を映し、そうして半歩ほどで、影の中に消え。
それは、彼を飾った光も同じく。
それでもなお白い、忍人の裸体。
「・・・・何か羽織ったらどうですか、忍人。そんなものを見せ付けられてしまったら、哀れな私の体はまた、君の熱を欲しがって疼いてしまいます」
差し出された柄を受け取らず、媚びるように忍人を見上げる柊は、裸の肩の片側だけに長衣を掛けている。
目が馴れさえすれば、こんな部屋の奥にも、うっすらと月明かりが届いているのはわかる。それは、柊の長衣の影から無残に伸びる、大きな傷跡を浮かび上がらせていた。
「知るか」
一言のもとに切り捨てて、忍人は受け取られなかった柄杓から、また、ひとくち水を含んだ。
濡れて光った唇が、自分のそれを含んださまを思い出し、柊の口元に、知らず笑みが浮かぶ。
それを目ざとく見逃さず、忍人は残った水を柊の上にぶちまけようとして。
伸び上がった柊に、ぐいと腕を掴まれて思いとどまる。
自分を抱いた強い腕を引き寄せて、柊は彼の手ずから水を飲み。
そうして空になった柄杓の底で、ごつ、と頭を叩かれて、『酷いですね』とぼやきながら、くすくすと笑った。
「ねえ、忍人。本当にもう一度しませんか？」
「馬鹿を言うな。俺は貴様と違って朝が早いんだ。さっさと身づくろいをして出て行け」
忍人は、寝台の下に投げ落とされた、柊の下衣や留め布を拾い上げ、ばさりと彼に投げつけた。
「つれないですねぇ。吐き出してしまったらもう終わりですか？」
「貴様が押しかけてきたんだろうが！」
声を荒げ、しかしすぐに口をつぐんで。
忍人は、柄杓を置きに、部屋の入り口へと向かう。
その背中に、再び月影が落ちるのを眺めながら、柊はそっと、寝台の上に手を這わせた。
「しかし、書庫で寝ると背中が痛いんですよ。ここの寝台は柔らかいですし・・・」
少し湿ってますけどね、と、続けながら、敷布の上、丁度先程まで忍人がいた辺りをしきりと撫でる。
そこに染み入った、忍人の汗の匂い。
それをいっぱいに吸い込みながら達した瞬間を思うと、自然と笑みが浮かんだ。
「貴様にあてがわれた部屋があるだろうが」
その忍人は、相変わらずそっけなく言いながら、手拭で髪を拭いていた。
勢いで水を浴びたことを、後悔でもしているのだろうか。
それともただ単に、柊が側にいるからか。
眉間の皺が深い。
そんな彼の様子を、愉しくたのしく眺めながら。
「しばらく戻らなかったら、日向の者が使っていたんですよ。手入れの行き届いた部屋は少ないですからね。追い出すのも面倒なので、そのまま明け渡してしまいました」
「何をやっているんだ・・・」
声にたっぷりと含まれた呆れに気づいていながら、柊はわざと声を弾ませた。
「ああ、私のことを心配してくれるのですか？忍人。・・・嬉しいですね」
「呆れただけだ！」
投げつけられた柄杓が、寝台後ろの壁に当たって、砕ける。
破片を退けて体を返した柊は、『物を壊してはいけませんよ』などと常識人ぶったたわごとを吐き、そうして壊れた柄杓の破片をひとつ、摘み上げた。
「ねえ、忍人。・・・人も物も、どうしてこうも壊れやすいのでしょうねぇ」
「・・・・人と物を、一緒にするな」
ふふ、と歪んだ柊の唇。
わずかに、水に濡れた。
そうしてほんのわずかに、月光に濡れた、それ。
未来を知るという、星の一族の男。
彼には、人も物も、一緒くたに見えているのだろうか。
その、ひとつ残った瞳には。
「一緒に思えたら、どんなにか楽でしょうにね・・・・」
つぶやかれた、柊の声。
その弱さに、腹が立って。
忍人は、つかつかと歩み寄ると、とん、と半端に衣をまとった胸を突いて、隻眼の男を寝台へと倒した。
「・・・・・嬉しいですね。私の望を叶えてくれるのですか？忍人」
とたんに被った喜色の仮面。
それを透かし見るように、その藍玉の瞳を眇め。
「寝る場所がないなら泊めてやる。その代わりに無駄口を叩いていないでさっさと寝ろ。今言っただろう、俺は朝が早いんだ」
そう言うと、忍人は柄杓の破片を無造作に拾って床に落とし、夜着を羽織って柊の横にすべり込んだ。
間近に見る、虚を突かれた柊の顔。
その、傷ついた右目を、獣のようにぺろりと舐めて。
そうして忍人は目を閉じると、あっという間に夢も見ない眠りの淵へと落ちていった。
熱い舌の這った傷跡が、夜気に当たって、ひやりひやりと冷えていく。
その冷たさに我に返った柊は、眠る忍人をまじまじと見つめた。
かすかに届く月光を、濡れて映す黒い髪。
敷布に沈められた、端正な横顔。
彼の存在は、世界にとっては些末なもの。
伝承のあわいで、生へ傾くこともあれば、死へと流れることもある。
さだめにすら載らぬ。
ほんの、ささいな。
とうに削ぎ落としたと思っていた感傷が、柊の胸に浮かびかけ。
しかし、それを吐息と共に逃して、柊は哂う。
「こんな目の前でお預けとは・・・・酷いですね、忍人」
おしひと、と。
もう一度だけ名を呼んで。
そうして柊も、彼に倣って目を閉じる。
眠れぬ夜には、とうに、慣れていた。
葦原のさざめきも、虫の声も聞こえない静かな夜。
月はただ、高く、遠く。
しかしやさしく、世界を見下ろしていた。