P.A.N.D.R.A
いつも丁寧に触れて来る真木の手が、いつも以上にゆっくりと確かめるように肌を這っていくのを感じ、兵部は思わず苦笑いをこぼした。
その笑いの意味を、精神感応も接触感応も持っていない真木は、しかし確実に理解した。
視界に、髭面のむさ苦しい男の顔が現れる。
これからセックスしようとしている男とは思えない、ひどく苦しげなその表情に、兵部の苦笑いは深くなった。
「なんて顔してんだよ」
ぺたり、とその頬に触れる。
ざらりとした無精髭の感触は、初めの頃は違和感があったけれど、今ではぞくぞくと快感を誘発してくるものになった。
「僕とするのがそんなに嫌かい？」
傷つくなー、とおどければ、そんなわけないでしょう、と至極真面目に返されてしまった。
むう、と膨れた唇にキスが落ちる。
情欲ではない。大切な、たいせつなものにするキスだ。
それが嬉しくて、でも、もどかしい。
だから兵部は炭素繊維に隠れた首根っこにがばりと抱きついて、思いっ切り性的なキスをしてやった。
「んっ・・・・」
肉厚の舌を舐め、自分の口の中に誘い込んで甘噛みすれば、それはたっぷりと兵部の口腔を舐め返し、与えられた快楽を、十二分に上乗せして返してくる。
まったく、もう。
呆れながらも腰を押しつけると、大きな手のひらに押し返され、しかしその手は兵部の脚を、手のひら全部で愛撫するように撫で上げてきた。
とろかされる感覚に、不本意な悦びと共に身を任せ、兵部はこっそりと嘆息する。
兵部が、何か無茶をしたあと。
大きな怪我が治ってすぐ。
体調を崩してなお、欲しがるとき。
真木はこうやって、怒りを押し殺すように過剰にやさしく触れてくる。
それはそれで、自分に対する様々な欲をつよく感じることができるから、好きなのだけれど。
今日は、とくにひどい。
「っ、や、もうっ・・・」
中を行き来する指は、もう３本にまで増やされていた。
最悪、濡らせば入る体だと知っていて、真木はそれでも執拗に、兵部の中を緩めてくる。
「も、いいから。はやく」
中は熱く潤って、未だに与えられないことに戸惑っている。
自ら脚を大きく開き、早くはやくとねだっているのに、真木の指は、奥を拓くように差し込まれたままだ。
「まだ、少し固いですから」
「こっ、の、ば、かぁ・・・っ」
今回は、未遂で体調自体が悪くないのも災いした。
今日はこいつ、徹底的に僕のこと確かめる気だ。
べつに兵部だって、軽々しく命をかけた訳じゃない。
ただ、ここで命を使うのが、ベターだと思っただけなのだ。
まあ、それも未遂に終わった訳だけれど。
自分の申し出を断った皆本の、ムカつくツラを思い出すと、そこが勝手にきゅうと締まって、真木が顔を上げてきた。
その眼差しの険しさに、こいつは本当に、感応系の能力がないんだろうかと疑いを持ってしまう。
「・・・はやく、いれろよ」
このばか、と、上がった息で繰り返せば、やっとのことで指が抜かれた。
力を抜く必要すらない。とろけきったそこは、押しつけられた真木のものを、いとも簡単に飲み込んでいく。
「あ、あ・・・っ」
慎みなく快楽の声をこぼす唇に、欲以上の情を感じる口付けが落ち、男を呑んで悦びむせぶ淫らな体を、この上なく大切なもののように抱きしめられる。
こんなふうに。
独占欲よりなお深く、愛されているという実感は、喜びよりも困惑が大きい。
なんで、僕なんか、と。
思ったところで、深くされた。
「い、あ・・・っ！」
絶対おまえ透視てるだろ！と。
腹立ち紛れにありえないことを叫ぼうとしたが、それはもう、言葉にならず。
「あっ、あっ、あ、ああんっ・・・っ」
とりけきった襞をかき回される悦びに、困惑も腹立ちも、すべてがたちまち消し飛んだ。
後はもう、望んだ快楽を貪るばかりの兵部は。
何を想っていたかも、忘れてしまった。
「あなたを・・・失うかと、思いました」
言われて。
ぼんやりと、行為の後の脱力を愉しんでいた兵部は、自分を腕の中に囲い込む、養い子の胸から顔を上げた。
じっと見下ろす漆黒の瞳。
こんなに大きくなったのに、それでも変わらない真摯な色。
愛おしさに、思わず口元が緩む。
「大丈夫だよ」
言った声は、幼子にかけるように甘かった。
ただ、その一言だけで、安心してしまいたくなるほどに、やさしかった。
「志賀さんを失っても、夏見さんたちがいたから、僕はまだ笑うことができた。夏見さんや宇津美さんたちを失っても、今度は君たちがいてくれるから、僕はまだ笑うことができるようになった」
そんな、甘い、やさしい声で。
「だから、僕がいなくなっても、君たちはまた笑うことができるんだ」
だから、大丈夫だよ。
宥めるようにそう言われ、真木は薄く微笑むその人の、ちいさな頭を抱き込んだ。
兵部の言うことは正しい。
人は、そうして命を継いできたのだから。
でも。
「・・・でも俺は、少佐がいないと、悲しいです」
逡巡しながら選んだ言葉は、頑是無い子供のようなものだった。
「大丈夫だよ」
案の定、兵部は真木の喉元で、仕方ない子供を宥めるようにちいさく笑い。
そっと、背を撫でてきた。
「悲しいのなんか、すぐに慣れる」
先ほどの熱のわずかに残る指先は、それでも冷えはじめている。
その失われた熱を、いと惜しく思う。
「慣れてしまえば、もう悲しくなんかなくなるものさ」
兵部の言うことは正しい。
そうして、悲しい。
失って失って失って。
失い続けて。
失うことに慣れきってしまったこの人は、もう何も、悲しくはないのだろうか？
そう、たとえば。
「俺が、あなたよりも先に死んだら」
あなたは、悲しいと思ってくれますか？
そう、続ける前に。
ばっ、と兵部が顔を上げた。
見開かれた黒い瞳。
その一瞬だけ薄く開いていた唇は、しかしすぐにぎゅうっと閉じられた。
怒り出すような、泣き出すような。
親を失った子供のような、子を失った親のような。
そんな、顔をして。
「そんなことを、言うんじゃない」
兵部は、真木の背中にあった手で、ぺちんと髭面の頬を叩いた。
ほんの一瞬で冷え切った指先が、震えている。
薄い水の膜を張った瞳が、きゅう、と細められて真木を映して。
色をなくした唇が、きつく、引き結ばれていた。
ああ、そうかこの人は。
失うことに慣れてなんかいない。
もう、失うことには耐えられないのだ。
失って失って失って。
失い続けて。
きっともう、ほんの些細な喪失で、壊れてしまいそうなほどに。
だから。
これ以上、何かを失ってしまう前に。
自分が、いなくなってしまえば良いと。
「・・・すみませんでした」
頬に当てられていた手のひらを、自分のそれで包み取る。
冷たい指先に口付ければ、兵部はこつん、と真木の胸に額をぶつけるようにして。
「次言ったら、怒るぜ」
そう、かすれた声で囁いた。
返事の代わりに、腕の中にすっぽり入る、華奢な体を抱きしめる。
いつの間にか、自分より随分小さくなってしまったそれは、そのぬくもりも骨の当たる固さも薄い肉の柔らかさも。
何もかもが、愛おしい。
『大丈夫だよ』
そう言って、笑うことはできるだろう。
『悲しいのなんか、すぐに慣れる。』
そう言って、感情を麻痺させることはできるだろう。
それでも。
決して塞がらない喪失の虚は、この人を確実に食いつぶして。
そうして、その中に。
この人を、引きずり込もうとしている。
・・・そんなことは、させない。
手の中の冷たい指に、熱を分けるように幾度も幾度も口付ける。
大丈夫です。
もう、決してあなたを悲しませない。
俺が、守ってみせますから。
何もかもを失った、このちいさな手の中に。
わずかに残った、その希望を。
きっと、俺が守ってみせる。
だから。
「・・・大丈夫、です」
その、一見脈絡のない言葉に。
兵部はただ、微笑んで。
そうして、眠るために目を閉じた。
手の中の希望は、冷たく、柔く、美しく。
そして決して相入れないものとして、ただ、そこに在った。