弟の恋人
午前１１時。
やっと起き出してきた竜也は、大学の授業に行こうと準備をしだして、教科書が足りないことに気がついた。
「・・・そういえば・・・・・・」
環境科学の本は、確かてつしに貸したような。
玄関には、見慣れた靴が放り出してあった。
竜也の授業は午後からだが、てつしは今日はさぼりと見た。
昨日は椎名と良次が遊びに来ていて、椎名の方はどうやら泊まったようだったから、きっと遅くまで起きていて、何やら悪巧みでもしていたのだろう。
また、危ないことをしなければ良いのだけれど・・・と、そんな心配をしながら、竜也はがらりと弟の部屋の襖を開けた。
「てつし、教科書返せ」
開けて。
それから慌てて、ぱしんと閉めた。
そうして、さっき見たものを反芻し。
「・・・ええと、ごめん」
とりあえず、謝った。
見てしまったものは、裸に毛布を引っかけただけの、弟の『親友』の姿。
あちこちに残る鬱血の跡。
床に乱雑に散らばった服。
毛布の端に付いた白いものは・・・もう何も言うまい。
かあ、と、頬に血が上るのがわかる。
ちょっとしたパニックに、まだ回りきっていない頭が、少し痛む。
そうしてそのまま、そこで呆然としていると、そろりそろりと襖が開いて、さらさらの黒い頭が現れた。
「・・・竜也兄」
竜也によく似た面差しの、弟の親友。
昨日泊まって、もう帰ったとばかり思っていた椎名が、見たこともないほどくしゃくしゃになった制服を引っかけて、なんだか大変申し訳なさそうに立っていた。
手櫛で梳いたと思われる髪が四方に跳ねて、真昼の光にちらちら光る。
いつも表情のない黒い瞳は、逡巡するように伏せられると、なんだか奇妙な風情があった。
これが本当に弟と同じ男子高校生（イキモノ）だとは、正直まったく思えない。
「てつしは学校か？」
といりあえず聞いてみると、椎名はこくりと頷いた。
「うん、これ以上休むと進級できないから、叩き起こして行かせた」
どうやら椎名は、てつしの授業時間数の管理もしてくれているらしい。
なんだか頭が下がるなぁと思ったところで、くしゃくしゃのシャツを掴んだ手の甲に、血の滲んだ歯形を発見してしまい、竜也は、はあ、とため息をついた。
どういうプレイをしてるんだ、あいつは。
「・・・あの、俊久父ちゃんと弥生母ちゃんには、黙ってて欲しいんだけど・・・・」
竜也のため息をどう解釈したものか、椎名が子供のように縮こまりながらぼそぼそと言った。
「わかった、言わない」
小さく丸まった背中を可哀想に思って、遮るように答えれば、椎名はほっとしたように竜也を見上げた。
切れ長の目元が、柔らかく緩む。
潤んだそれが瞬いて、ふうわりと、濡れたような唇が開いた。
「・・・ありがとう」
その様子は、まさに傾城さながら。
うーん、美人になったもんだよな。
似ていると言われていることを棚に上げ、竜也は弟同然の少年の、成長ぶりに驚いた。
そうして同時に、男前な弟の、その手腕に感心する。
こんな美人を捕まえたなら、誉めてやらなきゃいけないな。
それとも、あいつが捕まったのか。
それはそれで、男冥利に尽きるだろう。
「てっちゃんは、きっとかまわないと思うんだ。でも、俺が、申し訳なくってさ・・・」
本当に申し訳なさそうに、言いつのる椎名の言うことは、まだ、自分の感情で手一杯なはずの年頃の少年にしては、殊勝なもの。
本当に、いい子を捕まえたよな、てつし。
そう思いながら、竜也は椎名に笑いかけた。
「・・・・でも、親父もお袋も、かまわないと思うぞ」
長い睫を瞬かせ、椎名が少し、目を伏せる。
彼だって、金森家の人間の気質くらい、とうに知っているはずだ。
それでも気にしてくれる性質を、竜也はとても、好ましいと思った。
「もちろん、俺もかまわない」
そう付け加えると、黒い瞳がそろりと見上げた。
その頭に、ぽん、と手を置くと、小さな子供の時のように、さらさらと指を滑る髪を、わしゃわしゃになるまで撫でてやる。
「てつしを、よろしくな」
その時見せた、椎名の表情。
切れ長の瞳が、一瞬大きく見開いて。
それから普段の無表情が嘘のように。
まるで、花の開くように、笑った。
「うん。・・・ありがとう、竜也兄」
うん、うん。
自慢の弟の恋人が、とっても美人のいい子なので、竜也兄は大満足だった。
「そうだ、俺の教科書その辺にないか？」
「・・・これ、かな」
無事に教科書を回収し、部屋に戻ろうとして、竜也はそうだと振り返った。
「帰る時、気をつけろよ。手もそうだけど」
そう言って、つい、と自分の首を指さす。
「それは、目立つ」
「あ、いつ・・・！」
心当たりがあったのだろう、ばっ！と、ひときわ大きな鬱血の跡に手をやって、呟いた椎名はもう、いつもの三人悪のブレーンの顔をしていた。
きりきりとつり上がった目元に、後でぶっとばされるてつしが見えるようだ。
これなら、無茶するなと忠告してやる必要もないだろう。
なんだか微笑ましく思いながら、竜也は教科書を鞄にしまう。
よくよく見れば、玄関先の靴は、てつしのものにしては妙に綺麗だった。
そういえば、向かいの良次も同じのを履いていた覚えがあるから、きっと揃いで買ったのだろう。
その靴を、弥生母ちゃんの目につかなそうな玄関の端にのけてやると、竜也はとりあえず学校へ行こうと外へ出た。
帰ったら、弟に気をつけろと言ってやるべきか黙っているべきか。
そんな心配をすることも、兄貴の特権というやつだった。