俺の、家族 １６
朝日にちらちらと光るアスランの髪を、シンはそっと、そっと梳いた。
それでもアスランは目を覚まさない。
それはそうだ。
ついさっきまで、シンの下であんあんいってたんだから。
本当はシンも眠いのだけれど、でも、このまま眠ってしまうのはもったいない。
こんな綺麗なアスラン、見てないなんて、もったいない。
こんな気持ちいいアスラン、触らないなんて、もったいない。
ゆっくりと日が昇っていって。
それでもアスランは目を覚まさなくて。
眩しいかな。
カーテン引こうかな。
でも、ベッド出たくないな。
こっち向かせれば平気かも。
うん、平気平気。・・・・って、頭動かしても、目、覚まさないな。
ほんと寝汚いよな。
それとも、俺だからかな。
だと、いいな。
アスランとの時間は幸せで。
だからシンは、ときどき、不安になる。
このままでいいのかな。
このままで、本当に大丈夫かな。
一度、すべてを失ったシンは。
ときどき、不安に、なる。
だから。
今度は、ちゃんと自分で守ろうと思ったんだ。
大事な大事なアスランを。
俺が。
それにはどうしたらいいか考えて、とにかく自立しなきゃどうしようもないんだと気がついて。
頑張ってそうしてみようとしたら、アスランに正論で心意気を折られてしまった。
「俺って子供、なのかなぁ」
・・・嫌なこと、思い出した。
そういえばアスラン、１２の頃から売春してたって言ってた。
「俺をまた一人にするのか」って、言ってたアスラン。
まずできるのは、一人にしないこと。
いっぱい、一緒にいること。
でもそれって、俺にばっかり、都合いいんじゃないのかな。
でもでも、どうしたらいいのかなんて、わからない。
「うーーーー」
思わず唸ると、横合いから低くかすれた声が返った。
「お前・・・うるさいぞ」
「あ、すいません」
起こしちゃった。
「いい。・・・・起きる、か」
「寝ててください。目ぇ開いてないですよ。・・・ってわー！」
今にも枕に突っ伏しそうな様子を見かねて、持ち上げられた頭をそっと押すと、その腕を掴まれて、ぐいと引かれた。
バランスを崩して倒れかかったシンの目の前には、少し寝ぼけたアスランの顔。
寝ぼけてるけど。
緑の瞳が、きらん、として。
そのまま位置を合わせたアスランに、ちゅ、とキスされて。
「やばいって、アスランさん。もっとしたくなっちゃう」
「ん・・・・かまわないぞ。今日は休みだからな」
「朝！朝だから今！朝ーー！」
「なんで朝だと・・・」
いけないんだ、と、そう言おうとした口を、アスランは、ふ、とつぐんだ。
どうしたんだろう？と思ったシンは、ガタン、と鳴った部屋のドアに、びくんと身を強ばらせた。
機密性の高い家だから、どこか、特に、外に通じる玄関のドアが開くと、こういうことがけっこうある。
いつもなら、それはアスランが帰って来た合図で、シンは喜び勇んで出迎えに行くのだけれど。
今、アスランはシンの腕の中。
と、いうことは。
「泥棒？」
玄関には、昨日の夜ちゃんと鍵をかけたはずだ。
でも、そういうの外す手口もあるっていうし。
えっと、えっと。
「俺、見て来ます！」
「いや、シン」
言っている間に、とん、とん、とん、と、階段を上がる音がしてきた。
シンは慌ててアスランをベッドに押し込んで、脱ぎ捨てたズボンを穿いた。
「シン、そうじゃない。ちょっと時間稼いでくれ、俺・・・」
押し込んだ毛布の間から、アスランの声がする。
え？と思った隙に、足音がやんで。
「アスラン、いるのか」
どこかで聞いたような声がして。
アスランの部屋のドアが、ぎい、と、開いた。
シンははじめ、それが誰だかわからなかった。
背の高い男。
誰だよ！
そう、誰何しようとして。
「父さん・・・」
背後からのアスランの声に、はっとした。
うわ、そうだ、おじさんだ。
シンを引き取ってくれた人。
アスランに、引き合わせてくれた人。
アスランを、ひとりにした、人。
その人は、つめたい目をしてシンを見下ろして。
「子供を置いておけば、少しでもマシになるかと思ったが・・・まさか、こんな子供まで引き込むとはな」
その声までもが、つめたく凍っていた。
当たり前だ。
だって、アスランはすっ裸で、シンはパジャマのズボンに足を突っ込んだだけで。
何をしていたかなんて、すぐわかる。
「今更でしょう」
アスランの声も、そっけなかった。
家族の会話には、ぜんぜん聞こえなかった。
シンには、それが悲しかった。
すごくすごく、悲しかった。
「アンタのせいだろ！」
叫んだ声は、なんだか子供じみていた。
それが悲しかった。
それが、悔しかった。
でも、シンはまだ子供だから。
それは、どうしようもないことだから。
「アンタがこの人ひとりにしたから！だからこの人・・・」
「シン、いい」
「だって！」
振り向いて見たアスランは、起きあがってのっそりと着替え始めていた。
パジャマを探してさまよう腕が、この場にそぐわないほどになまめかしかった。
「その人に、何を言っても無駄だ」
「だって、家族だろ！？」
なのになんで、そんなこと言うの？
「ああ、そうだな。・・・でも」
パジャマのズボンを一度捜し当ててから放り出し、アスランはふっと立ち上がってシンに歩み寄った。
「俺にとって、今、家族はお前だけだよ、シン」
切ないほどに、やさしい声。
シンを見下ろす瞳は、泣きたくなるほど愛しげで。
シンの大好きなあたたかな腕が、少年ををそっと包み込み。
柔らかな唇が、かすめるように、シンの頬に触れた。
「父さん、あなたに、感謝します」
なのに、その唇から漏れた声は、冷たくて。
堅くて、怖くて、悲しくて。
「この子に会わせてくれたことに、感謝します」
きっと今、シンの肩越しに、アスランはお父さんと対峙してる。
何かしなくちゃ。
何か言わなくちゃ。
でも、俺、どうしたら・・・・
「今、部屋を探してるんです。この子と一緒に住むために」
シンがおろおろしていると、アスランは唐突にそう言った。
「君のおかげだ、シン。この家から出るっていう選択肢を、俺にくれた」
シンにくれる言葉は、こんなにもやさしいのに。
「見つかったら、連絡します。もう、この家は汚しませんから。だから安心してください」
おじさんへの言葉は、なんでこんなに冷たいの？
「・・・そうか」
「ちょっ・・・ちょっと、待てよ！」
シンは慌てた。
何故そうなるのか、ぜんぜんまったくわからなかった。
わたわたと振り向いて見上げた『おじさん』の表情は、しかし、ぜんぜんまったく動いていなかった。
「そうかってアンタ、それでいいわけ？子供が出てくって言ってんのに！？」
「アスランの決めたことだろう」
「・・・嫌か？シン」
「そーじゃなくってさ！」
何なんだよこの親子！？
そーゆーことじゃないだろう！
「嫌なワケないです先に俺が言いだしたことだし！でも、でもそうじゃなくって！」
「いいんだ、シン」
アスランの声も、ぜんぜんまったく、普通だった。
まるで、宿題の先を教えてくれるかのように。
「俺も父さんも、お前の言いたいことわかってる。でも、いいんだ」
まるで、今夜の献立を相談するかのように。
「ずっと、こうだったから。だから、どうしたらいいのかわからないんだよ」
そんなのってない、と、シンは思った。
そんなのって、ない。
「・・・そうでしょう？父さん」
おじさんは、何も答えずに。
ただ、二人を見下ろして、ドアを閉じた。
遠ざかっていく足音に。
シンの腕を掴んだまま、震えるアスランの指先に。
シンが出来ることは、何も、なかった。
引っ越しをする日は、ものすごく良い天気だった。
アスランが借りてきた小さいトラックに、シンの勉強机を乗せる手伝いをしてくれたのはイザークだった。
シンは仏頂面で礼を言い、イザークも仏頂面でそれに応えてくれた。
持っていく家具は、その机と、リビングにあった白木の椅子とテーブルだけ。
アスランの荷物は工具や部品の他はほぼ本で、シンの荷物の方が多いほどだった。
一度だけ、家を振り返ってからトラックに乗り込んだアスランを追って、シンも助手席のドアを開ける。
シートベルトをしてから顔を上げると、アスランの緑の瞳と目が合った。
アスランが、ちらりと笑う。
「俺もバイトしてるけど、お前も大学入ったらちょっと働けよ？」
「なんか、言ってること前と違う」
でも、そう言ってもらえるのは嬉しい。
当てにしてもらえるのは、嬉しい。
「違わないさ。研究室内のバイト紹介してやるから。徹夜ができる若いのは、結構重宝されるんだ。だから今はちゃんと勉強して、ちゃんと大学入れ」
「・・・うん」
信用されてるんだと思うと、嬉しい。
「貯金がだいぶあるから、しばらくは大丈夫だから。その辺は心配しなくて良い」
「なんか言ってることさっきと違う！」
ははは、と、アスランが笑う。
「でも、貯金っていったって、おじさんのだろ」
シンは、おじさんからもらった通帳は置いてきた。
アスランに相談しようかと思ったけれど、するまでもないと思って、置いてきた。
「言ってなかったか？お前と同じだよ。ずっと家の通帳には手をつけてない」
しかしアスランは、けろりとそう言って。
「１２の頃からの荒稼ぎだからな。そうそうはなくならないさ」
「１２って・・・・えーーー！！」
『荒稼ぎ』の内容に思い当たり、バイトしよう、とシンは心に誓った。
約束だから、高校出るまではしないけど、でも大学入れたら生活費ちゃんと稼ごう！
走り出したトラックの窓から、シンはしばらく住んだ家を見上げた。
おじさんの書斎のカーテンが開けられていて、めったに帰って来なかった人が、珍しく、帰ってきていた。
この、もう誰もいなくなってしまう家に。
昨日の夜、アスランが言っていた。
この後どうなるかはわからない。
でも今は、こうした方がいいんだって。
この後。
俺たち、どうするんだろう。
あの人は、どうするんだろう。
家の屋根越しに見た空は、高く高く澄んでいた。
清々しくて、自由で、綺麗で、でも、少し寂しい。
遠くなっていく家を見て、でも、と、シンは思う。
アスランは、この後どうなるかわからないって言ってたんだ。
だから。
この空みたいに、綺麗な未来があるといいと思った。
この空みたいに、ずっと、繋がっている未来があるといいと思った。
俺たちにも、あの人にも、繋がっている未来。
だって、俺たち生きてるんだから。
だって、家族、なんだから。
緑の葉陰に、住んでいた家が見えなくなった。
だからシンは、代わりに、隣のアスランを見た。
アスランは、ちらりとやさしい瞳でシンを見て。
それからその目を、まっすぐ前に向けて、ハンドルを握った。
だからシンも前を見た。
ずっと、ずっと、前を見た。
終