望み
仮眠のために部屋へ戻ると、ベッドの上で兵部が寝ていた。
しかも、素っ裸だった。
真木はひとつ、大きなため息をつくと、はだけていた毛布を、肩まで掛けてやった。
兵部がこうして、真木のベッドに潜り込んでくることは、そう珍しいことではない。
たいていはそのままセックスへなだれ込むのだが、ただ、すり寄ってきて大人しく寝てくれることもある。
今夜のように、真木の戻る前にそのまま寝てしまうことも、希だがない訳でもない。
セックスしたければ、真木が仕事中でも容赦なく襲って来るのだ。こうして寝ているということは、ただ、誰かの気配のある場所で眠りたかっただけだろう。
もう少し早く切り上げて来れば良かった、と、主の寝顔を眺めて、真木は思った。
目が覚めたとたんに当たり散らされる面倒くささももちろんあるが、それよりも。
一人で眠りたくないから、真木の部屋まで来たこの人を。
結局、一人で眠らせてしまったことが、悔やまれてならない。
「そういう時も、来て下さればいいのに」
兵部の羞恥心は、おかしなところにある。
セックスがしたいと他人を襲うのは、もういっそ堂々としてくるのに、誰かと眠りたいからと真木に無理を言うのは、何故だかひどく恥ずかしいと思うらしい。
兵部のために、こんなに遅い時間まで仕事をしている真木なのだ。
よほどのことでもない限り、兵部を優先するものを。
ベッドの端に座ると、固めに作ったスプリングが、それでもギイ、と少し沈んだ。
覗き込んだ寝顔は幼い。
闇を凝らせたような瞳を閉じると、この人の容貌は、とたんに時を止めた歳相応の。
いや、それよりも随分と幼い印象になる。
それでも、緩く息をつく唇の艶や、毛布から覗く白い頸。
この肌に触れる悦びを知ってしまっている真木にとって、それはただの少年の体ではない。
眠る彼の前髪を指の背で払うと、傷跡の凹凸が現れた。
そこにそっと唇を落とすと、甘やかな肌の匂いが、銀糸と共に鼻先をくすぐって。
長い睫がふるりと震え、闇色の瞳が露わになった。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「・・・んぁ」
寝ぼけた瞳はまだ幼いが、それが焦点を結ぶにつれて、いつもの深い闇を取り戻す。
「遅い」
「すみません」
自分が勝手にもぐりこんだことを差し置いて、真木を責める言葉に逆らわず。
謝りながら、白い頬にもキスをする。
額よりも少し柔らかな感触に、思わず微笑んだところで、無造作に襟首を引っ張られた。
「いいから、さっさと来い」
その後に続いたもごもごは、たぶん『枕』と言っていた。
真木の喉元に顔を突っ込んでしまったために、最後までは聞こえなかったが。
「シャワーだけ浴びて来ますから」
喉元に蟠る吐息と体温に背筋を震わせながら、真木はそっとその人の体を押し返した。
このままでは、この人の睡眠を妨げて、無理を強いてしまいそうだ。
「ん？するのか？」
しかし、兵部は真木の心遣いなど頓着せずに、可愛らしく小首を傾げて見せた。
自分で、あざといとわかっている仕草だ。
「しませんよ。寝る前に少しさっぱりしたいだけです」
襟首を掴んだ指が外れない。
眠っていたせいで、少し熱の籠もったそれに手を重ねると、兵部はむしろ、力を込めてその手を引いた。
「じゃあ、いらね」
ちゅ、と、柔らかな感触が唇に触れた。
まだギリギリ、ただいまとおやすみのキスだと判断できる。しかしかすかに、夜の始まりを匂わせるキス。
こういった駆け引きめいたことを、この人は天然でやっているのだから始末に終えない。
「・・・わかりました」
真木は、柔らかくキスを返し、その人を満足させることで襟首の手を離させて。
「着替えるくらいは許してくれますか？」
そう問うと、かすかに濡れた唇が、むう、と可愛らしくへの字に歪んで。
それでも、威丈高な声が返ってきた。
「仕方がない。さっさとしろ」
素早くパジャマに着替えてベッドへ戻る。
一秒ごとに機嫌が降下する兵部を、そう待たせることはできない。
「お待たせしました」
布団をめくると、むくれたままの兵部は、それでも少しだけ端へ寄ってくれた。
そのまま、彼の隣へ体を滑り込ませる。
ぬくもった体と布団を冷やしてしまうことに罪悪感はあったが、真木の基礎体温は高い。
すぐに温もるだろうと、銀糸の髪にキスをして、腕枕をその下に差し込みながら、兵部の体を抱き寄せた。
愛しい体温を腕に包む幸福に、真木の口元が緩んだとたん、ごつ、と胸の真ん中に頭突きを食らって息が止まる。
本当に機嫌が悪ければ、喉仏か鳩尾に来るので、これでもまだマシな方だ。
胸に突っ込んだ頭を撫でると、すりり、と懐いてくるのがその証拠だった。
その上、ふんふんと匂いをかいでいるらしく、真木はやはりシャワーを浴びたかった、と後悔したのだが。
落ち着く姿勢を探して少しだけもぞもぞした兵部は、しかしすぐに、大人しくなった。
眠っているわけはないらしい。
しかし、呼吸は緩く、穏やかだ。
真木のせいで下がったベッドの中の温度が、徐々に戻ってあたたかくなる。
時折、すん、と匂いを嗅がれているのが気になるが、臭うと思われていれば、すぐにもベッドから蹴り出されるだろう。
そう思って銀色の頭を撫で、指を滑る銀糸の感触を愉しみながらより深く抱き寄せれば、もともと力の入っていなかった兵部の体が、ふにゃん、といっそう弛緩して。
今度は、ぐりぐりと額をすり付けてくる。
その、甘えた仕草にほっとする。
この人に、こうして寛ぐ場所を用意できること。
それが、自分の腕の中であること。
その、幸福を、噛みしめる。
できれば、素っ裸は勘弁して欲しいのだが、高超度のテレポーターでもある彼は、無意識でも服を脱いでしまうのだから仕方がない。
背中に添えた手のひらが、滑らかな肌と体温を、直に感じて少し辛い。
甘やかな肌の匂いが、眠気に上がった体温で匂い立ってもぞもぞする。
そういえば、脱いだ服を見かけなかったが、自分の部屋にでも置いてきてしまったのだろうか・・・
そう思ったときだった。
「・・・まぎ」
胸元から聞こえた声は、もう、だいぶ眠たげだった。
「はい」
真木自身の声も、いい加減茫洋としていた。
「ん」
ただ、返事があったことに満足して。
兵部の吐息は、安心しきった寝息へと、徐々に移り変わっていく。
その寝息を、胸に仕舞うように。
生まれたままの体を、大事に大事に抱き寄せて。
真木は思う。
この人の望むものは、大きくて。
そうしてたぶん、とても小さい。
たとえば、こうして穏やかな眠りを得られれば。
呼んだ声に、応えが返れば。
それだけで、満足してしまうほどに。
この人の、大きな望みに手を貸すことができること。
小さな望みを、満たすことができること。
それが、真木の唯一の望み。
とうに叶った、昔からの夢だった。