寝子
何がきっかけだったかと言えば、それははっきりとわかっている。
葉だ。
戦後、しばらく荒んだ生活を送っていたせいか、人の気配を感じただけで目が覚める。
当然ながら、側に人がいる状態で眠ることなどできない兵部だったのだが。
何せ、目が覚めた時に自分が側にいないと、たちまち泣き出して家の一軒くらい楽に潰してくれる子供がいるのだ。一緒に寝ない訳にはいかない。
２、３日は寝不足に悩まされたが、しかし意外なことにすぐに眠れるようになり、葉に起こされて初めて目が覚めるようになった。
あのときは、要は慣れだったのかと呆れたものだ。
その後、親を失ったばかりの紅葉が、「葉ばっかずるい」と言い出したのは、仕方がないことだと思う。
彼女はテレポーターだから、ＥＳＰ検査を受けなければ、レベルがある程度上がるまでは普通の子供と同じ・・・親に愛された子供だったのだから。
一人も二人も一緒だった。
幸い、当時兵部の使っていたベッドは広かった。
ベッドに入れてやれば、紅葉は葉の面倒もよく見てくれるものだから、兵部が起こされる頻度も減ったように思う。
もちろん、紅葉のせいで眠れないということなど、なかった。
その紅葉が、「しろちゃんも一緒に」と言い出した時には、さすがに少し戸惑った。
確かに、時々眠れていない様子はあったけれど、さすがに年長の、しかも男の子である司郎は、一緒に寝たくなどないだろう。
しかし、寝しなに精神感応の網をかけてみれば、悪夢にうなされる少年の様子が手に取るようにわかってしまい。
「おまえもこっち来いよ。うなされてたら起こしてやるから」
それは、自分が誰かに言って欲しかった言葉だったのかも知れないと、一瞬よぎった思いは瞬間叩き落としてなかったことにした。
それでも、当然渋った司郎も。
「葉の面倒、僕らだけに見させる気かい？」
そう言ってやれば、しぶしぶとした様子を装って、それでもベッドに入ってきた。
こうして、どうやら自分が『子供』と認識した相手なら、一緒に寝ても問題はないという結論に、兵部は達した。
しかし。
『子供』とは、成長するものなのだ。
カタタ、カタタタ、と、キーを打つ音が聞こえる。
コーヒーの匂いがふわりと香って、半分くらいミルクの入ったそれが飲みたいと思った。
それでも、あたたかな膝から頬を離すのが、なんだか惜しくて。
しかしすぐに、自分とこうしているのに仕事してるなんてなんて奴だと思い直して。
ころりと寝返って上を向き、目をあけてすぐに見えた顎を、どふ、と念動力で打ち上げてみると、ぐえ、と情けない声が漏れた。
「少佐ぁ・・・・」
「く・・・くくっ」
涙目で髭の顎をさする様子があんまりおかしかったから、それで許してやることにして。
兵部は、機嫌よく甘い声を出した。
「僕といるのに、仕事なんかしてるおまえが悪い」
「あなたがもう少し仕事をして下されば、俺だってここまで忙しくはないんですよ」
いつもの説教をしながらも、真木の手は、さらり、さらりと兵部の頭を撫でていた。
まるで昔、兵部がそうしてやったように。
いや、それよるもずっと、繊細な動きで。
額の生え際を指先がなぞり、前髪をくるりとかき回した弾みで傷跡に触れて。
ほんのひととき、その上に留まった後で、それは耳の後ろを掻くようにして離れていった。
言ってることとやってることが微妙に違うんだよ、と思いながら、兵部は更に寝返りをうって、真木の腹の方を向いた。
というよりも、真木の、すっかり成長しきった腹筋に、顔を突っ込んだ。
人の気配を、心地良く思うようになったのはいつからだったか。
昔、側に人がいる状態では眠れなかった自分が、この固い膝枕で熟睡できてしまうなんて。
それどころか、この体を引き倒し、たくましく育った腕で囲い込ませて、腕枕を強請ろうかなどと、寝ぼけているとはいえ思ってしまうなんて。
人間、長く生きているといろいろあるもんだ。
すう、と息を吸い込むと、生きている人間の匂いがした。
昔は、死体から飛び出したはらわたの方がまだマシだと思っていた匂いが、今は、心地よく頭を霞ませる。
真木はよく、兵部の肌をいい匂いだと言うけれど、真木だって随分いい匂いだと思う。
いい匂いに、安心しすぎて、ぼんやりする。
でも、ちょっと、苦しい、かな・・・
「窒息しますよ、少佐」
くい、と額を押されて我に返る。
無骨な指が、傷跡をもろに押しているが、気にはならない。
それよりも、スーツの生地と顔との間に空気が入って、呼吸が楽になってびっくりした。
「するかよ」
僕を何だと思ってるんだ、と、うっかり呼吸困難で意識が飛びそうになっていたことを棚に上げて文句を言うと、はいはい、と、おざなりな返事が返ってきた。
それが気に入らなかったから、今度はパソコンにでも念動力をブチ当ててやろうかと思ったけれど。
「もう少しで終わりますから、大人しくしていてください」
その言いようも、生意気だと怒りを掻き立てようとしたけれど。
いつの間にか掛けられていた毛布を、肩口まで引き上げられて。
さらり、さらりと、また、髪を撫でられて。
ああこいつ、僕を眠らせてその隙に仕事を終わらせる気だな、と、思っても、瞼は重くなって。怒りは続かなくて。
「・・・まぎ」
すり、と、今度は気をつけて、真木の腹に、額だけを擦り付ける。
首が曲がって少しだけ寝苦しいけれど、まあいいやと思ったところで、今度は肩を押されて。少し、重心が移っただけで、ひどく楽になった。
楽になったら、もっと、眠くなった。
「おきたら、コーヒー」
まっすぐに息が入るようになった喉から漏れた声は、それでもぼんやりと掠れていた。
髪を撫でる指が気持ちよくて。
触れる体温が、真木の匂いが気持ちよくて。
とにかく、ともかく眠いのだ。
「ミルク半分ですね」
「ん」
その答えに満足して、兵部はまた眠りに落ちた。
もう、面倒を見る必要のない子供の膝は、すっかり安眠枕で。
今、一番よく眠れる場所は。
いつの間にか、ここになっていた。