こころ
流れゆく雲を、ぼんやりと見ていた。
時折、風が頬を撫でていき、柊の髪と、視界に入る草の先、野の花の花弁を、等しく揺らしては去っていった。
寝転がった大地はあたたかく、日差しもまた、あたたかい。
まるで、夢を見ているようだと、そう思う。
美しい光景にも、心地よい皮膚感覚にも、すべてに現実味がない。
しかし、これが現実。
伝承に、記されぬ世界。
右手を上げて顔を覆う。
しかし、腕の遮った右の視界は、もとより失って久しいもの。
ならば、今この瞳に映る黒い影は。
「何をさぼっている、柊」
「・・・・忍人？」
柊は、幻を見る目で影を見上げた。
忍人は今、自分の家に閉じこめられて、療養中のはずだった。
かろうじて命はつないだものの、破魂刀に削られた命に、体がついていかなくなったのだ。
ならば、これは。
柊が結論を出す前に、長年培った勘が、とっさに身を反転させた。
片膝を付いた状態で起きあがる。
忍人の足は、今まで柊の腹のあった場所に叩きつけられ、体の下で押し倒されていた草の一部が、踏みしだかれて、千切れていた。
影を見上げる。
黒衣の青年は、随分と細くなった体をそれでもまっすぐに伸ばし、そこに立っていた。
「外出禁止では、ありませんでしたか？」
ここにいるのは、間違いなく、生きている葛城忍人。
千切れた草の断面を眺め、どこか脱力して問うと、忍人は少し嗄れた低い声に、かすかな笑いを滲ませて、いらえた。
「見舞いにも来ないくせに、そんなことだけは知っているんだな」
それから、踏み込んだ足をすっと戻し。
「散歩程度ならと、今朝、遠夜から許可をもらった」
「それで、一人でこんなところまで？不用心ですねぇ」
「付き添い付きだ、当然だろう」
くい、と示された方を見やれば、忍人の副官を務めていた狗奴の者が、つ、と視線を逸らすのが小さく見えた。
「・・・さぼっていたわけでは、ありませんよ」
力の抜けた膝を崩し、そのままそこに座り込みながら、柊は、忍人の病的に細くなった首、こけた頬を見上げた。
じわり、じわりと、何かが胸に湧いてくる。
それは、久しく味わっていなかった何か。
しかし、確かに知っていたはずの、何か。
「陛下に、休めと言われて宮を放り出されてしまいました」
「無様だな」
そう言い捨てた忍人は、そのままとさりと柊の前に座り込んだ。
あぐらをかいた脚が、袴の中で泳いでいる。
軽く組まれた腕の先、細い指は、節ばかりが目立って。
「しかし、俺も貴様のことが言えんな・・・・」
しかしその声は、決して弱いものではなかった。
不甲斐ない自分と兄弟子と、その双方に呆れる響きは、柔らかな笑みを含み、そうして、ひどく伸びやかだった。
風が、緩やかに忍人の黒髪を揺らしていく。
どこか遠くを映したまなざしは、どこまでも澄んでまっすぐだった。
「しかし、やっと歩けるようにはなった。以前のようにとはいかないだろうが・・・・柊？」
星見の隻眼をひたりと閉じて。
柊は、とさりと忍人の肩に額を預けていた。
骨ばかりが浮いた肩。
病み衰えた者特有の、すえた肌の匂い。
彼が息をするたびに、嫌な響きが、胸のあたりから、伝わる。
それでも彼は生きている。
鼓動が伝わる。
熱が、伝わる。
あれだけ命を削られたというのに、彼特有の、まっすぐな生気が、伝わる。
ざあ、と、強い風がひとつ、草原をないだ。
左目を上げれば、さんさんと降り注ぐ光の中、草木が、花々が揺れている。
そうして、触れたぬくもりが。
そっと、柊を包み込んだ。
深くふかく息をつく。
吸い込んだのは、草いきれと日の光と、それから彼の服に染み込んだ。
豊葦原の、大地の匂い。
ああ、今、私は彼の命がどれほど長らえるかもわからない。
その不安。
そして、希望。
今、胸を満たすこれは。
生きているという実感。
愛しいと、そう、思うきもち。
とうに、失ったはずの、こころ。
柊の、寝付いていた自分とそう変わらぬ細さの腕を背に感じながら、忍人は空を見上げた。
柔らかな日差し。
吹き抜けてゆく風。
今日は、とても良い日だ。
「・・・おい、ここで寝るな」
「しかし、陛下からは休めと言われているんです」
「なら、うちに来い。寝台くらいは貸してやる」
他愛のない軽口に、案の定、柊が反応した。
「寝台だけ、ですか・・・？」
「俺はまだ、無理だ」
まだ床も上がっていない人間に何を言うんだと睨みつければ、柊は声を立てて笑った。
「待ちますよ」
それは、久しく目にすることのなかった、彼の何の含みもない笑顔。
「あなたが良くなるまで、待ちますよ」
そんな未来を。
信じる幸福を、再び得た。
この世界で。
この、時空で。
「わかった。そのかわり」
頷いた忍人は、柊の肩に重心をかけて立ち上がった。
「肩を貸してくれ。少し無理をしたようだ」
「おやおや、抱いて行って差し上げましょうか？」
「いらん」
忍人を支えて、柊もまた、立ち上がる。
二人で見渡した豊葦原の大地は、花と緑に彩られて。
ただ、ただ、美しかった。