灰色の床が、歪んで見えた。

世界全部が歪んで、そうして、なくなってしまうような気がする。

すぐに帰らなければいけないのに、立ち上がれない。

そうしているうちに、歪んだ視界に靴のつま先が見えた。

「夢を見るんだ、花月。こうやってお前が泣いている夢だ」

十兵衛の声は、とても静かで、それが花月にはとても痛かった。

「僕も、君の夢を見たよ」

痛みをこらえて、努めて明るく言う。

早く、立ち上がれるようにならないといけない。

「どんな夢だったかは、いつも覚えていないんだけどね」

なのに、声も膝も震えている。

何故。

「それで何故、オレの夢だとわかる」

十兵衛の声は、こんなにも静かなのに。

「目が覚めると、幸せな気持ちが残っているんだ。だから、十兵衛の夢だよ」

「・・・そうか」

声が、真上から降ってきて、そうして視界いっぱいに、大きな手が現れた。

触れられた瞬間、びくんと引いた顎を取られ、簡単に仰のかされる。

そうして

吐息ごと、奪われるようなキス。

日溜りの匂いにくらくらする。

思わず震えた背中を抱き支えられ、そのまま逞しい腕に抱き上げられる。

どさ、と落とされたのは、スプリングの悪いベッドで、着ていたTシャツを、ひと息に首まで引き上げられ、花月は十兵衛のしようとしていることを理解した。

「・・・っ、じゅう、」

「好きにしていいと言ったのは貴様だ」

確かに言ったけれど、そういう意味じゃない。

そう思ったが、花月はこくりと頷いた。

「・・・うん」

ひとりで立つこともできない自分は、結局、逃げ出すことさえできないのだ。

酷くされるんだろうな、と思った。

その方がよかったのに。

体中に、丹念にキスをするやり方は、まったく変わっていなかった。

花月を、たまらないほど気持ちよくさせて、立ち上がりかけたソレにも、丁寧な愛撫をくれて。

思わず浮いた腰の奥へと忍ばされた指は、いつの間にか何かで濡らされていて、傷つけないようにと慣らす動きのじれったさに、花月は逞しい肩に縋りついた。

「じゅ、う、べ・・・」

十兵衛は、花月の体を全部知っている。

どうすれば喜ぶのか、どうすれば泣くのかも、全部。

「じゅうべえ、じゅう・・・」

「いいか？」

「うん・・・・っ、ああっ！」

熱い猛りに貫かれ、日溜りの腕に閉じ込められて、花月はおかしくなりそうだ、と思った。

幸せでしあわせで、どうにかなってしまいそうで。

その腕にしがみつくと、こぼれる涙を舐め取られ、いっそう深く侵入ってこられて、花月はただただ泣き喚いた。

もう、

全部がぜんぶ、

どうでもよかった。

優しく髪を撫でられる心地よさに、花月は緩く息を吐いて傷のある肩に頬をすり寄せる。

日溜りの匂いがする。

十兵衛の腕。

気持ちいい。

「花月」

名前を、呼ばれる。

「オレは、お前を守るために生を受けたと思っているんだ、花月。お前の心が誰のものであろうとも、オレはお前を守る」

気持ちいい声。

「守らせてくれ。頼む」

気持ちがよくて、涙が出る。

「お前とこうしていられれば、オレは何もいらない」

涙なんか、もう、出尽くしたと思っていたのに。

「どうして・・キミは、変わらないの？僕は、こんなに変わってしまったのに」

硬い前髪をかき上げ、少し伸び上がって、閉じられたままの目蓋にキスをする。

「お前がいるからだ」

意外と長い睫毛を舐めていると、髪を撫でていた手のひらに力がこもり、その力に従って、深く、その胸へと抱きこまれる。

「お前を守るという存在意義が変わらぬ限り、オレは変わらん」

「・・・すごいな、十兵衛は」

もう一度笑って、花月はぎゅうっと十兵衛に抱きついた。

「十兵衛、キスを・・・しようよ」

伸ばされた指に涙を払われ、雫を受けたままのその先を、そうっと唇で拭ってから。

「僕は、キミに恋なんかしていないけど。でも・・・十兵衛」

「ああ」

触れて

離れて

また、触れて

それは、はじめて触れ合ったときのようなおぼつかないものから、やがて深い、大人のキスへ。

僕は、キミに恋なんかしていないけど

でも

キスをしようよ、十兵衛。

そうしたら僕は、幸せになれるんだ。

そうしたら、キミも幸せになれる？

だったら、十兵衛。

僕と。

キスをしようよ。

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