キス、雨、そうして手のひら
てつしのようなタイプのバカには、何もかもが、いっぺんに、わかってしまう一瞬というものが存在する。
てつしにとってそれは、地獄堂で居眠りをしていた時に、ふ、と触れた、椎名の唇だった。
それで、てつしはわかってしまった。
椎名が、自分を好きなのだと。
自分も椎名を好きなのだと。
わかって、しまった。
ぱちりと開けた視界には、珍しく一目で驚いているとわかる、椎名の真っ黒な瞳があった。
キレイな形の唇は赤くて、ああ、あれが触ったのかと思うと、また、触りたくなって。
さらさらの頭に手を回して、ぐいと引き寄せ、なんだかとっても柔らかいそこに、む、と唇を押しつける。
ああコレすげーイイ、と思ったところで。
椎名はてつしを突き飛ばし、脱兎のごとく逃げ出していた。
その後を追い、てつしも小雨の振る夕暮れの道へ走り出る。
椎名が、俺から逃げるなんて。
なんだかちょっぴり、傷ついた。
幸運だったのは、椎名の逃走先が駅前ではなくイラズの森方面だったことだ。
それだけでも、椎名のパニックぶりが伺えた。
大丈夫かよ俺の参謀、と思いながら、てつしはその後を追った。
人に紛れられると追いつくのは容易ではないが、森の縁の遊歩道なら、てつしの足なら追いつける。
途中、不利を悟った椎名が、歩道を外れて森へ入った。
夕暮れ時の上に、雨まで降っている森は思いの外暗くて、暗闇でも十分に見える椎名に、一時、距離を開けられる。
それでも、その背中を見失う直前に、椎名の足がぴたりと止まった。
きっと、てつしには見えない何かがあったのだ。
すぐさま進路を変えて走り出すものの、スピードが乗る前に、距離を詰めていたてつしに追いつかれた。
「待、てぇ！」
がつ、と捕まえた肩を引いたとたん、勢いを殺さず足払いをかけてくることは折り込み済み。
ケンカなら、てつしの方が数段上だ。
逆に足を蹴りつけて、そのまま二人、もつれ合うように落ち葉の上に倒れ込んだ。
「っ、イッテー！」
運悪く落ちていた枝に突っ込んだてつしは呻いたが、すぐさま起きあがって、逃げようとしている椎名の上に馬乗りになった。
椎名の転んだ方が落ち葉が深かった分、たっぷりと水分を吸ったそれに、足を取られて初動が遅れた。
暗い暗い森の中、ただでさえ乏しい椎名の表情は見えない。
それでも。
暗闇に浮かび上がる白い頬が濡れているのが、雨のせいだけでないことは、てつしにもわかった。
「あーもう泣くなよ！なんで逃げんだ！」
「知らないよ！」
ぜいぜいと、息を整える間もなく怒鳴り合う。
なんとかてつしをどかそうと、膝でてつしの腹を蹴りつつ、顎に手のひらの下の堅いところを突っ込んでくる椎名になんだか酷く腹が立ち、てつしはこの相手に、出したこともないほど大きな声で怒鳴りつけた。
「逃げんな！」
とたん、びく、と、椎名の体がひきつった。
硬直した腕を力ずくで退けられて、てつしがズイとのぞき込んできた。
暗闇の中でも、いつもと変わらず見える椎名の目には、幾度か灌木に突っ込んだてつしの頬に、いくつものひっかき傷ができていることまでよく見えた。
そうして、その大きなツリ目が。
見たこともない光を宿して、椎名を睨みつけている。
掴まれた腕が、地面にぐいと押しつけられた。
その手はもう抵抗しないとわかっているのか、離されたてつしの手が視界に入る。
殴られる、と思ったけれど、椎名にはもう為すすべがない。
しかし、その手は椎名の頬を確かめるように強く擦り、そうしてまた、唇が触れた。
てつしの手のひらが、頬を伝い落ち、喉を掴む。
急所を握られて、椎名の背筋にゾクリと何かが這いあがった。
それは、どこかで見た昏い喜び。
命の根元に関わる、狂った感覚。
しかしその手は喉を離れ、泥水を吸った服の上から、椎名の体を確かめるように下りていく。
胸、腹、そうして脚。
柔らかなわき腹で指に力を込められた時、首を掴まれた時と同じ感覚に支配された。
まずい、と、椎名は思った。
これは、本当に、まずい。
てつしの唇が、椎名のそれを離れた。
そうして、濡れた髪の張り付いた額に、涙をこぼす目元に、濡れた頬に、また唇に。
そこから下りて、喉元に。
てつしの、歯が、当たった。
「・・・てっ、ちゃん・・・・・」
名を呼ばれ、てつしははっと我に返った。
思わず、というように漏れた椎名の声に滲む、言いようのない不思議な色。
唇に伝わる震え。
手のひらの下の、濡れたジーンズの感触。
その下にある、椎名の体の、感触。
それを意志の力で振り払い、ゆるゆると顔を上げる。
暗闇の中、薄ぼんやりと見える椎名の瞳は、いつも以上に表情がなかった。
ただ、涙だけが、次々と浮いては雨に紛れて落ちていった。
「あー・・・・ワリ」
濡れた落ち葉と泥に沈む椎名の上から退くのは、顔を上げるのと同じくらいの気力が要った。
今のが何だったのか、まだ幼いてつしにはよくわからなかった。
ただ。
椎名に、もう逃げる意志がないことは、わかった。
へたり込みそうになるのをなんとか堪え、ひっくり返ったままの椎名に手を差し出す。
椎名は一瞬迷うようにてつしを見上げ、しかし、差し出された手を掴んで、立ち上がった。
雨が、酷くなっていた。
二人とももう、ずぶ濡れだった。
「・・・椎名」
てつしにはよく見えないけれど、椎名が「何？」と視線で問い返しているのは気配でわかった。
その頭を引き寄せて、てつしはまた、椎名にキスをした。
これがキスだと、初めて自覚して、キスをした。
それは、椎名にもわかったのだろう。
椎名も大人しくそれを受け止めて。
そうして、名残惜しそうに、離した。
「・・・いつから、だ？」
手を繋いで、遊歩道へ戻る道を踏みながら、てつしが聞いた。
「俺のこと、好きだろ」
「・・・・わかんない」
帰り道を指し示し、時折足元に注意を促しながら、椎名は答えた。
「俺もだな。でもわかったのはさっきだ」
俺も椎名のコト、好きだぜ、と、笑うてつしの顔が、闇に眩しかった。
「椎名は、いつわかった？」
「言いたくない」
「おい」
ぎゅう、と、力任せに手を握られて、椎名は緩く首を振った。
「まだ、言えない」
「・・・そっか」
じゃあしょうがねえか、とてつしが呟いたところで、遊歩道の街灯が見えた。
「ウチ寄ってけ。風呂入んねえと風邪ひいちまう」
街灯の下で見ると、お互いひどい有り様だった。
多少のことなら気にしない弥生母ちゃんでも、これはちょっと怒られる。
そうして、多少のことなら気にしない美麗母ちゃんでも、これはちょっと、心配するだろう。
「やめとく」
しかし、椎名は首を振った。
首を振ると、髪の先から泥水が落ちた。
「今、てっちゃんと風呂なんか入ったら、俺、おかしくなっちまう」
てつしよりも、少しだけ大人な椎名には、今のが何だったのか、ちゃんとわかっていた。
はあ、とつかれたため息の色に、てつしはなんだかドキリとした。
「そう・・・か？」
声が上擦ったのはなんでだろう。
「うん、そう」
自信たっぷりにそう言われ、じゃあそうなんだろうと納得し、てつしはとりあえず手のひらを頭に置いて、ほんの少しだけ傘にした。
「じゃあ、走って帰るか」
雨はもう、本降りになっている。
そのまま駆け出そうとするが、椎名がその前に声を上げた。
「俺、もう限界」
息こそ整ったものの、長距離を全速力で走りすぎて、足がガクガクになっていた。
「おやじんとこで風呂借りて行こうかな」
リョーチンも置いて来ちゃったし、と、恐らく今頃心配で泣きそうになっているであろう親友を思い出す。
二人よりもずっと足の速い彼が来ないのは、おやじが引き留めているからか。
それとも彼のことだから、何かを感じ取って、今頃泣きそうになりながら待っているのかも知れない。
「ああ、俺もそうすっか」
「だから、てっちゃんと一緒に風呂入りたくないって」
「なんでだよ！」
「あと何年かしたらてっちゃんにもわかるよ・・・」
ぎゃあぎゃあと言い合いながら、二人の手は繋がれたままだった。
そうしてそれは、これからもずっと。
ずぶ濡れの、冷えきった体の中で。
繋いだ手のひらだけが、とても、とてもあたたかかった。