君のためにできること
彼の兄弟子たちは、いつも、何の前触れもなく忍人の部屋を襲撃する。
初めは文句を言っていた忍人も、次第に彼らの流儀に慣れてしまった。
遠慮のいらない仲間たち。
その存在に、慣れてしまった。
しかし、そのうちのひとりが失われ。
そうして、ひとりは。
変わってしまった。
兄弟子の部屋に入るのに、遠慮は無用。むしろ襲撃する勢いで。
そうはっきりと言ったのは、いなくなったひとりだった。
そうは言われても、さすがに一声かけて。
というよりも、かけながら扉を開けた忍人は、一呼吸を置いて、慌ててそれを閉めた。
「柊、いるか。・・・・・・・・・・・・す・・・すまない！」
「・・・いいえ」
扉の向こうからは、落ち着ききった部屋の主の声が返った。
その声は、落ち着いてはいたけれど、忍人の知らない艶が宿っていた。
少年は、今見た光景を反芻する。
寝台の上には、ほぼ全裸の柊が身を起こしていた。
失われた右目に、近頃やっと見慣れてきた眼帯はなく、しかししどけなく垂らされた髪に隠れ。
そうしてその髪には、やはり、身に何も纏わぬ風早の指が差し込まれて、梳いている最中のように思われた。
子供だ子供だと言われては怒っている忍人だが、この扉の向こうの光景が、何を意味するかくらいは理解できた。
「・・・・・・っ！」
かたり、と、部屋の中で音がして。
忍人は、弾かれるようにその場を駆け出していた。
「忍人、ここ、いいかな」
恐らく、必死に剣を振っていたのだろう。
息を上げて座り込んでいた忍人の隣に、風早は腰を下ろした。
小さい小さいと思っていた少年は、成長期が来たのか、近頃随分と大きくなった。
それでもまだ、背の高い風早とは視線が合いにくい。
まだ。
いや、この先、彼の身長が自分に追いつくことはない。
そのことを、風早は知っている。
見下ろす視線に、彼らしくなくうろうろと視線を彷徨わせてから、忍人はやっと口を開き。
「風早、あの、君と柊は・・・いや、いいんだ。すまない」
それでもすぐに俯いてしまった。
頬を染めた忍人の、その表情。
はあ、と、風早はわざとらしくない程度に、大きなため息をついた。
「あのことがあって、帰ってきてから。柊は少し・・・おかしかっただろう」
言い訳じみているな、と、言っている風早自身がそう思う。
しかし、聞いていた忍人は、ただこくりと頷いただけだった。
だから風早は、同じ調子で言葉を続ける。
「だから、何か出来ないかと思ったんだけどね・・・何をどう、間違ったのかな」
「間違った・・・？」
「うーん。ごめん。君に対して後ろめたいからかな。こんな言い方になってしまうのだけれど。そうだな。でもやっぱり、間違った、のかなぁ」
たったひとつ残った瑠璃紺の瞳。
暗く淀んだそれを思い出し、風早も瞳を蔭らせる。
「俺は、柊を少しでも救いたかっただけだけれど、やっぱり・・・俺には無理だったみたいでね」
それでも、何かできないかと思って。それでああなってしまったんだよ、と。
頭を掻く年上の友人の顔を、忍人はまじまじと見上げていた。
その視線に、ますますばつが悪くなり、風早は、はあ、と、また大きなため息をつく。
それは、年下の友人へ向けたものではなくて、自分自身に向けた、ため息。
何を何度繰り返しても、『上手くやる』ということとは無縁の。
しかし、忍人はそうは取らなかったのだろう。
ひとつ、「すまない」と呟いて、下を向いてしまった。
「すまない。俺は、妙な勘繰りを・・・いや、あれでも・・・あれ？？」
自分でも、何かおかしいと思ったらしいのだが、何がおかしいのかわからなくなってしまったのだろう少年に、風早はくすりと笑う。
「いや、うん、まあ、だからね。俺と柊が好き合ってるとか、そういうことはないんだよ」
少年の白い頬がまた、かあっと火照った。
彼が、柊の言動に呆れつつも尊敬していることを、風早は知っている。
そうして、柊が彼をとてもとても可愛がっていることも。
そうは見えなくても、確かにそこにある思いを、風早は知っている。
「汚いと、思うかい？」
ふるふると、首が振られる。
その答えをわかっていて聞いた自分を、知っている。
ああ、そうだね、柊。
知っている、ということは、なんて打ちのめされることなんだろう。
やわらかく揺れた髪を、風早はそっと撫でてやった。
黒く、滑らかな髪が、するりと指の間を通っていく。
この髪が。
血をすって強張るさまを思い出し。
風早が、金色の瞳を眇めた時だった。
「君は、柊のためにできることがあるんだな、風早」
ぽつりと、忍人がそう言った。
「俺は、君が羨ましい」
それから、まっすぐに、風早を見上げて。
「柊に、何かできる君が羨ましい」
そう、正直に羨望を口にする少年。
「君は、いい子だね、忍人」
思わず漏れた言葉に。
「子ども扱いしないでくれ」
すぐさま言い返された声は、しかし力なく。
すぐに、手のひらを返したように、忍人は言う。
「・・・・いや、すまない。俺は子供なんだろうな。きっと。・・・君や柊や・・・羽張彦に比べたら、ずっと」
長い睫の下、藍玉の瞳に、言いようのない陰りが宿る。
忍人は、今年１５になった。
出会ったときから大人びていた少年は、もう、こんな顔をするようになった。
「俺は、もう少し、早く生まれてきたかった。君たちより年長とは言わない。せめて・・・同じ年ならば」
視線が落ちる。
彼の傍ら、行儀良く揃えられた、剣の鞘の切っ先に。
「俺は、何かできただろうか」
柄を握った手のひらには、大人に負けない剣だこと力があった。
「柊は、何か言ってくれただろうか」
しかし。
「言わなかったと思いますよ」
はっとしたように。
絶望したように、忍人は風早を見上げた。
暁の、気づかぬうちに明け初める空のような、藍色の瞳。
この瞳が光を失い、夢見るように、ただ虚空を映すさまを、風早は知っている。
そうして、知識の上では、柊も。
それが、二人と忍人の、決定的な違い。
年齢ではなく。
そんな、些細なものではなく。
だから。
「柊は、君がとても好きなんですよ。だから、言いたくないんだと思います」
かっと忍人の頬が赤くなった。
おやおや、と、風早は思った。
いつもの。
いつもどおりの、言の葉を紡ぐ余裕が、戻っていた。
「何を・・・」
「柊に聞いてみたらいい。きっとそう言います」
「あいつの言うことは、どうも信用できない。確かに嘘は言っていないんだが、どうも、誤魔化されているような・・・」
「そうですねぇ、彼も素直じゃないから」
はは、と笑う。
空気が、緩む。
「それにねぇ、相談してもらえなかったのは俺も同じですから。君の理屈だと、俺も子供ってことになってしまうんですけど」
「・・・・確か、柊の方がひとつ上、だったか？君はいちいち年寄り臭いし、柊は大人気ないからよくわからないんだが」
いつもの生意気な弟弟子の口調に戻り、忍人は風早を見上げた。
「ええ」
確かに、その存在がどうであれ、『風早』は柊よりもひとつ年下だ。
それを聞いた忍人は、ひとつ。
深く深くため息をついた。
それは、１５の少年のつくものではなかったけれど。
しかし、困った兄弟子を持った弟弟子のものとしては、妥当といって良かった。
「・・・・風早」
「はい」
「柊を頼む。俺では、何もできないから」
その言葉を、風早は生意気だとは思わなかった。
この、真摯な思いを、とてもうつくしいと思った。
「たとえ間違っていたとしても、何もできないよりはマシだろう」
それはどうだろう、と思ったけれど、少し考えてから、人ならぬ獣の神は頷いた。
自分に縋る柊の指。
その必死の力を、思い出したから。
「お互い、困った兄弟子を持つと苦労しますよね」
「まったくだ」
遠慮のいらない仲間たち。
そのうちのひとりは失われ、そうして、ひとりは変わってしまった。
それでも。
忍人は、剣を持って立ち上がる。
その背中に、すっかり成人した後の彼の姿を重ねあわせ。
もうすぐ、常世へ渡っていくだろう柊を思い。
今は風早と呼ばれる存在は、思う。
それでも、運命は紡がれる。
君たちはまた、己の望みのために、力の限りに戦うのだろう。
その、真摯な思いを、気持ちを。
羨ましいと思う俺は。
彼らに倣って、できることを、力の限りにすれば良いのだろう。
できることがある。
彼の言うとおりに、それはきっと、意味のあることなのだから。