絃の花月が怪我をした、との報告を受けて、銀次は花月の部屋へ向かっていた。

途中で、朔羅に十兵衛の部屋に居ると聞いて、じゃあ大丈夫だと、少し安心する。

「カヅっちゃん！」

ドアを開けて、銀次の足が止まった。

むせるような、血の匂い。

薄暗い部屋の中、薄灰色に見えるシーツに、血まみれで歪んだ足が放り出されていた。

医者に抱きこまれた体は見えないけれど、とても手当されているようには見えなくて、銀次は慌ててベッドに駆け寄った。

「どうしたの、十兵衛、早く手当してあげないと、カヅっちゃん死んじゃうよ！」

力を失った四肢、乾いた血のくすんだ赤。

無限城では見慣れたはずの光景に、しかし銀次は決して慣れることはできない。

「十兵衛！」

何故か・・・ひどく驚いたような顔をしている十兵衛を覗き込み、銀次は必死に訴える。

「早く・・・ねえ、十兵衛！」

思わず触れた花月の腕から、粘着質な血が付いて、銀次は泣きたくなった。

「カヅっちゃん、大丈夫？ねえ、カヅっちゃん！」

意識のない花月に、何度も呼びかける金色の頭を見下ろしていた十兵衛は、やっとのことで口を開いた。

唇がぴりりと裂けて、口腔が乾ききっているのがわかった。

「・・・・姉者を、呼んできてはくれまいか？雷帝」

十兵衛の声は、静かで落ち着いていて。

花月の体を横たえる手つきも慎重で優しかったので、何故今まで手当てもせずにいたのかと問うことも忘れ、銀次は部屋を飛び出した。

『カヅっちゃん死んじゃうよ！』

花月を本気で、純粋に心配する、銀次の、その瞳。

驚いた。

昔、自分もこんな目をしていたのだろうか。

そして、今は。

十兵衛は、傷を洗うために、花月の体を抱き上げた。

止血だけはしてある。傷を清め、折れた骨の位置を正し、固定し、免疫能力を高める孔を打ち。

それだけで、花月の体は回復するだろう。

花月を守り、その健やかさをも守ることが、自分の使命。

忘れてどうする。

十兵衛は、一度、深く瞑目する。

腕の中の、守るべきものをよりリアルに感じる。

それから、すべきことをするために動き出す。

もう大丈夫、自分はおかしくない。

すまない。花月。

目を覚ました花月がそこに見たものは、うすぼんやりと白いものだった。

「・・・・？」

それが、自分の手に巻かれた包帯だと気づくのには、随分と時間がかかった。

力を入れると、何の抵抗もなく指が動く。

引き寄せると、布同士が擦れあうずるずるとした感触を引きずって、熱を持った指が勢い余って額に当たった。

ちゃんと動く。

なんで？

「・・・・・あまり動かさないでください。まだ、完全には塞がっていないと思いますから」

声のしたほうに、目だけを向けた。頭は、重すぎて動かない。

「・・・さ、くら？」

見慣れた、年上の女性の顔。

見慣れた、心配そうな顔。

「すみません・・・・・」

それが、何に対する謝罪かを理解して、花月は深く、息をついた。

打撲のせいか、それだけでも胸がひどく痛む。しかし、その内はとても空虚だった。

それを埋めるために、彼女に、何かを聞かなければいけないと思った。

もしくは、何かを言わなければと。

「朔羅は・・・・・」

しかし、頭の中身が溶け崩れたかのように、そこから思考が進まない。考えたくない。

・・・眠りたい。

「さくら、は・・・・・・」

涙が出た。

眠りたいのに頭が痛い。

誰か、どうにかして欲しい。

助けて。

「じゅうべえ・・・・」

獣のように呻きながら涙をこぼし続ける花月の背に、朔羅の指が触れた。

ゆっくりと、あやすように優しい手のひらが丸められた背を撫ぜて、花月はいっそう喉を詰まらせる。

「う・・・く・・・ぅ・・・・・」

最後に、花月の涙を見たのはいつだったか。

泣き方すら忘れていた憐れな少年の背をさすりながら、朔羅は弟と、そして自分の不徳を悔いていた。

しかし、他にどんな選択があったか、朔羅にはわからない。

この、血と暴力の世界で。

三人きりで。

「・・・っく、うぇ・・・っ、え・・・」

やっと、泣き声らしいものを上げ出した花月の背を抱いて、朔羅は暗い思いに捕われる。

自分には、この少年は救えない。

彼の対は、朔羅の弟であるから。

だから朔羅は、ただ、少年の背を撫でていた。

ずっと、ずっと、優しく。

眠ったふりをしていたわけではなかった。

ただ、疲れて。

眠くて、それでも眠れずに。

だから十兵衛が入って来たときにも、花月は黙って目を閉じていた。

「花月」

しかし、主治医にそんなものが通じるはずもなく。

緩慢に目蓋を押し上げた花月は、大きな影のような幼馴染を、それが恐ろしいものであるかのように、見上げる。

「十兵衛・・・ぼ、く」

「すまなかった」

花月が何かを言う前に、十兵衛は深々と頭を下げた。

「貴様を守るとの誓いを忘れ、危険に晒す真似をした。許されるとは思わん。だが、これからも貴様を守ること、それだけは許して欲しい」

その様子をぼんやりと見ていた花月は、ほつり、と言葉をこぼした。

「十兵衛は、僕を、守ってくれるの？」

「ああ。心も、体も。貴様のすべてを守る」

もう、間違えない。

その男の言葉は、先ほどとまったく変わらない。

それなのに。

「で・・・も、君は、それを望んでいないんだろう？風鳥院の僕は、いらないんだろう？」

漆黒の瞳が、瞬きもせずに十兵衛を映す。

「君にとって、僕の価値は、何？」

君が、僕を守ってくれる。その意味は、何？

「貴様の価値など、わからん」

そんなことを、堂々と言って。

「ただ、貴様は、貴様だ」

揺るぎない目で、花月を見下ろして。

「貴様が風鳥院であろうとするならば、風鳥院の貴様を。貴様が風鳥院であろうとしないなら、・・・ただ、貴様という人間を守る」

それが、俺の価値だ。

そう、言い切る、男。

花月がゆるく手を伸ばすと、その手を取って、抱き寄せてくれる。

ぎい、とベッドがきしんで、乗り上げた膝の上、花月は、目を閉じて十兵衛に身を預けた。

柔かく髪を梳かれ、その手に導かれて口付けを受けながら、花月はひと筋、涙をこぼした。

十兵衛。

僕、は。

僕には、君の命に見合う、価値、は。

後になって思い返せば、そのとき、既に『芽』は出ていたのだ。

花月が、無限城を出るということは、そのとき既に決まっていたのだ。

花月が、十兵衛のもとを離れることは、そのとき既に決まっていたのだ。

「貴様は俺が守る」

花月が再び、それに頷くことができるまで。

数年の時間が、必要だった。

終

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