君の価値、僕の価値 １
自分に、価値があるとは思っていなかった。
彼等の命に、値するほどの価値は。
価値があるのは、風鳥院と筧の名。
それを取り戻す旗印としての、風鳥院花月の名。
復讐を果たし、家を再興しなければ、僕にかける彼等の命すら、意味を失ってしまうから。
彼らに報いるには、それしかないから。
だから、僕は必死で走った。
この、無限にも思える血と暗闇の中を。
ベルトラインへの挑戦は、今の自分では無謀だったのだと、気付いた時には遅かった。
満身創痍でも、仲間のもとへ帰れたのは、ただ単に運がよかっただけだと、半ば痛みも麻痺した体で、花月は思う。
倒れ掛かる体を受け止める十兵衛の腕。自分の名を呼ぶ朔羅の声。
帰ってこられたと思ったとたんにこぼれた涙は、力不足を悔やむより・・・やはり、安堵から来るものだったのだろう。
そんな自分を嫌悪しつつ、花月は誰よりも信頼する主治医の腕に、身を委ねた。
少し埃っぽい肩口に涙の雫を運ばれて、自分の部屋へと戻った。
十兵衛の腕の中で、半ば気を失っていた花月は、とさりとベッドに下ろされる感覚で目を覚ました。
意識がなかったのはほんのわずかの間らしいが、体中が重いだけで痛みがないから、とりあえず苦痛を遮断する処置だけ、先にしてくれたらしい。
このまま、また眠ってしまえばその間に手当てしてもらえて楽かもしれないと、甘えた自分に苦笑しつつ、もう一度目を閉じる。
目覚めたときには、また、十兵衛のやさしい手に癒されていると信じて。
しかし、それは叶えられなかった。
目覚めたときに、十兵衛の膝の上、というのはよくあることで、花月はまったく不思議には思わなかった。
ただ、起き上がろうとしても体が動かなくて。
おかしいなぁと思いつつ、十兵衛を見上げて、息を飲んだ。
花月を見下ろす、十兵衛の瞳。
いつも穏やか光を湛えているそれが、昏く、ただ昏く花月を映している。
「じゅう、べえ・・・？」
そして、花月は気づく。
自分の体が、まったく手当てされていないことに。
「十兵衛、どうし、たの・・・？」
こんなことは初めてだった。
十兵衛は、いつでも花月の心配をしてくれて。
大事にしてくれて。
やさしく、してくれて。
今も、記憶と違わないやさしい指が、花月の頬を包んでくれているというのに。
「どうも、しないさ。もう少し、眠ったらどうだ？花月」
「だって、手当て・・・」
してくれてない。
そう訴える花月の腕を、十兵衛は本当に、愛しそうに撫でた。
「腕は・・・放っておけば、化膿するな。脚は、骨が折れている。手当さえしなければ、いくらここが無限城でも、お前は動けなくなるだろう」
ぞっ、と、花月の背を恐怖が駆け上がった。
ベルトラインで感じたものとは、また、違う恐怖だった。
だって十兵衛が。
誰よりも、花月の信頼する、十兵衛が。
「そうすれば・・・もう、進んで危険へと往くこともないだろう」
やさしい、声。やさしい手のひら。
十兵衛は、本当に花月のことを、思って。
花月のために。
花月の。
「僕は・・裏を倒して、表を再興して、それが君達に・・命をかけて、僕を守ってくれる君に、唯一報いる方法だと思ってた。違うの？ 十兵衛」
「報いなど、いらんよ。言っただろう、俺は貴様を守るために生まれたのだからな。貴様を傷つけるものから、貴様を守る。それがベルトラインの連中だろうと風鳥院だろうと・・・貴様自身だろうと、同じことだ」
信じられない思いで、花月は十兵衛を見上げた。
「じゅ、う・・・」
「まだ、痛むのか？孔を替えてみるか・・・」
「おかしいよ・・・十兵衛・・・」
「おかしくてもかまわない。お前を守れれば、それでいい」
ずっと髪を撫でていた指が、血で首筋に張り付いていた襟を引き剥がした。
そこに針を当てられ、体から力が抜ける。
「もう、痛まないか？」
知らず、こぼれていた涙を花月の血のついた指で拭い、更に汚れたそこを、熱い舌で舐められた。
抱きしめる優しい力は変わらず、しかしその手は痛みを取る以上のことはせず。
十兵衛は、ただ、優しく、やさしく、血のついた髪や傷ついた背を撫でていた。
「これで・・・十兵衛は、報われるの？」
「言っただろう、俺は報いなどいらない」
「僕がしてきたことは、全部無駄だった？」
「知らんよ・・・」
必死に走ってきた足元が、崩れ落ちる。
十兵衛の手が、優しく髪を撫でる。
もう、体は痛まない。
「十兵衛は・・・これで、満足？」
「・・・この方が、危険は少ないからな」
「そっか・・・」
なら、いいやと花月は思った。
十兵衛に報いるために、必死になって戦ってきた。
力をつけ、情報を集め、ただ、風鳥院のために。・・・筧のために。
でも。
母上、ごめんなさい。
優しい手のひらに誘われるように、目を閉じる。
手当はしなくてもいいから、血のついた服だけでも着替えたいと思ったけれど、このままの方が傷も腐りやすいだろう。
腕が腐れば、もう糸は使えない。
脚をやられれば走れない。
走れなければ・・・十兵衛を心配させることもない。
それで、十兵衛は満足だろう。
なら、それでいいや。
傷つき、疲れきった体に、ひとり、空回りし続けた疲労が重なって、一気に花月を押し潰す。
あの、日溜りの日々を取り戻すことはできないけれど、この、あたたかな腕はここにある。
手足の自由を失って、この腕の中に守られ続ける。それは、とても幸福なことのように思えた。
もう、いいや・・・
腕の中で、大人しくなった花月を見下ろし、十兵衛は満足のため息をついた。
少し熱の出てきた花月の体はあたたかく、すっかり預けられた重みはいとおしい。
こうして、花月を腕の中に収めていると、このままずっと、閉じ込めておきたくなる。
どんな危険にも遭わないように。どんな傷もつけないように。どんな痛みも、味あわないように。
今は苦しいだろうが、俺が、守るから。
血のついた頬に、もう一度触れる。
もう、涙は流れていなくて、十兵衛は我知らず、破顔した。