山を登り、藪をくぐって垣根を越えて。

憶えた絃の配置を忘れずに、引っかかって見つからないように。

十兵衛は、親友の元へ急ぐ。

それはもう、十兵衛の日課になっていた。

「花月！」

躑躅の植え込みから顔を覗かせ、十兵衛はちいさく、しかしはっきりと、親友の名前を呼ぶ。

十兵衛がこっそり入ってこられるのは、花月が琴の練習に使う、この離れが限界だ。

母屋に行っていれば、アウト。

でも大丈夫。今日は、ちゃんと花月の気配がする。

いつもより少し、乱れてはいるけれど・・・・・

呼んでから、花月が出て来るまでを長く感じるのはいつものこと。

それでも、今日は少し長いかな。

でも、花月いるんだし。

十兵衛が花月に会いたいように、花月だって十兵衛に会いたいに違いない。

そう思っている十兵衛が、じっと待つこと、暫し。

期待通りに開いた襖から、黒髪を揺らした花月が顔を覗かせた。

「・・・・十兵衛？」

聞こえた声に、ぞくりとした。

え・・・え？

何故、自分がそう思ったのかわからない十兵衛は、躑躅の枝の間から無理やりに、最近また大きくなった体を引っ張り出した。

「ああ。今日は元気がないな。どうした？」

どう見ても女の子みたいなのに、やはり年相応にやんちゃな花月はいつだって元気なのだ。

さっきの声は、少しおかしい。

少しくらいの不調ならば、どうにかできると自負している十兵衛は、気をつけながらも離れの簀子縁に駆け寄った。

「風邪でもひいたのか？診てやろうか」

十兵衛の針は、花月のためにあるのだから。

それなのに、花月はちいさく首を振ってそれに応えた。

「ううん。なんでもないんだ」

少しだけ開いた襖の隙間から、少しだけ花月が見える。

大きな瞳、着物の柄、襖にかかった細い指。

どきん、と、十兵衛の心臓が跳ね上がった。

なんで？

「でも・・・」

その正体を掴めずに、困惑する十兵衛を思ってか、花月はいつものように十兵衛を部屋に招き入れた。

「大丈夫、筧の小父様に見てもらったから。・・・昨日、技の伝受があってさ、それで、ちょっと疲れちゃっただけだよ」

「本当か！？いいなぁ・・・」

十兵衛の言葉に、花月はぴくりと反応したが、十兵衛は気がつかない。

「十兵衛だって・・・そろそろ、奥義を伝授してもらえそうなんだろう？」

花月の唇が赤い。小首を傾げるのが可愛い。崩された脚の、着物と足袋の間が妙に目に付く。

「それ、父上に言ったら殴られた。そんなんじゃ、まだまだだってさ」

花月の指の動きに目を引かれる。唇に触れたその先は、ほのかにさくら色をして、どきどきするほど綺麗だった。

「そう・・・じゃ、僕と、一緒、だ、ね」

それきり、花月が黙ってしまったので、十兵衛は途方にくれた。

「花月・・・？」

脈でも診てやろうかと手を伸ばすと、すい、と身を引いて避けられる。

空を切った手が、急に重く感じた。

「ごめん、十兵衛・・・やっぱり僕、疲れてるみたいだから、もう・・・・」

言った花月の濡れた瞳。

「あ、ああ。すまない。じゃ、もう帰るよ」

ほんとはもっとここにいたいけれど、花月がそう言うなら仕方がない。

立ち上がった十兵衛は、外に誰もいないことを確認すると、花月を振り返った。

いつもと違う花月を、このまま一人にしておくのは、とても心配だったけれど。

「また来るから。今度は遊ぼうな」

「うん。待ってる」

そう言った花月がやっと笑ったので、十兵衛はほっとして離れを後にした。

躑躅の茂みに十兵衛の背中を見送り、花月はやっと作った笑みを消した。

十兵衛、ヘンに思っただろうな。

これで嫌われたら、どうしよう。

泣きたい気持ちがまた浮かび上がって、唇を噛む。

どうしようもないコトだけど。

でも・・・

目の奥がじんわりと痛くなって、はじめの一粒が眦に溜まりかけたとき、躑躅の植え込みが、またがさがさと鳴った。

「花月！」

十兵衛の声。

「休んでなくちゃだめだろう」

髪の毛と袖に葉っぱをつけた、十兵衛の姿。

「あ・・・うん」

頷いた花月によし、と笑って、十兵衛はその目の前に、可愛らしいピンク色の花をつかみ出した。

「見舞いだ。向こうに咲いてた。・・・早く元気になれよ」

目にも鮮やかな、蓮華草と少年の笑顔。

「うん・・・ありがとう」

今度こそ花月は、ほんとうに笑った。

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