いとしき日々
槍はどうしても、動作が大きくなりがちだ。
それが、体の大きな羽張彦なら、なおさらだ。
打ち払った穂先、空いたわき腹。
とっさに踏み込み、しかし忍人は、直後に自分の甘さを実感した。
穂先は遠いが、視界の端から柄の元がこめかみを狙って打ち下ろされてくる。
自分の剣が届くより、あちらの方が早い。
とっさに、身を沈めた。
急所は外せたが、背中を打たれて地に転がる。
なんとか体勢を立て直したとたんに、目の前には槍の穂先と、その向こうには、にっと笑った羽張彦の顔があった。
「勝負あ・・・」
『り』と、最後までは言わせずに、そのまま地面を両手で打った。
潰してあるとはいえ、鋼の穂先は忍人の額を抉り、流れ落ちた血に視界が塞がれる。大失態だ。
それでも、相手の位置はわかる。
剣が、届く。
そう思ったのに、危険を察した体が、勝手に地を蹴って飛び下がっていた。
それでも避けきれなかった足が、胴にそのままめり込んで。
忍人の意識は、あっという間に吹っ飛んだ。
「ーーーーっ！」
飛び起きると、とたんにひどく咳込んだ。
「忍人、急に起きちゃ駄目だ」
かけられた声に顔を上げると、風早が心配そうにのぞき込んでいる。
「まったく、どういう無茶をするんですか」
背中を撫でて咳をなだめてくれているのは、柊の手だろう。
「すまん！まったく手加減できなかった！」
そして、馬鹿正直な羽張彦。
「・・・いや、俺が未熟だから。むしろ、君に手加減を忘れさせることができたなら、嬉しい」
忍人が転がされていたのは、打ち合った広場の草の上だ。
そう長く気絶していたわけでもないらしい。
その証拠に、だら、と垂れてきた血を風早から受け取った手布で拭い、忍人は少し気をつけながら立ち上がった。
足元が、まだ少しぐらぐらする。
「お、立って大丈夫なのか？」
しゃがみ込み、忍人をのぞき込んでいた羽張彦が、その姿勢のまま見上げてきた。
「ああ。すまない、心配をかけた」
忍人よりも随分年上のはずの彼は、こういう時、ひどき子供じみた表情になる。
「・・・・羽張彦」
「何だ？」
「最後の踏み込みは、お前の蹴りを避けなければ入っていただろうか？」
手布で額を押さえたままの弟弟子に、彼はにかっと笑って答えた。
「ああ、そうだろうなー。お前カンが良すぎんだよ。あれ、考えるより先に体が動いてただろ」
「・・・ああ」
思い返してから答えた忍人は、そのままどうしたらいいのかと考え込んでしまう。
「無意識をどうこうしようというのは、なかなか難しいですよ」
「むい・・・？」
言いたいことは何となくわかるのだが、風早の言葉は、時々ひどく難しい。
「それよりも、せっかく可愛い顔をしているんですから、あまり傷を作らないでください」
柊が、後ろの方で暢気なことを言う。
「誰が可愛いだ！」
がばりと振り向いた忍人の額を、風早がつかまえて押さえてやった。
「忍人、怒ると血が止まりませんよ」
「潰した穂先だから、入ると余計痛いだろ。悪かったな」
「わかっていてやったんだからかまわない。・・・しかし本当に止まらないな」
小さな手布は真っ赤になって、もうこれ以上血を吸いそうもない。
「道臣に言って血止めをもらってきましょう」
「待て、自分で行った方が早い」
真っ赤な布で額を押さえながら、忍人が風早の後を追う。
「あー、俺も打ち身の薬！」
大声を上げた羽張彦に、忍人もまた声を大きくして答えた。
「なら、自分で来い！」
「課題まだかって言われるからやだ」
「まだ出してないんですか・・・」
「頼むわー」
本当にもらってきてくれるかどうか怪しい、けっこう優等生な二人組から、隣に立ったままの柊の方へと、羽張彦は声を引き戻して。
「――わ」
「代わりにはやりませんよ。写させるくらいならかまいませんが」
「そんなんすぐバレるだろうが」
あーあ、と、羽張彦はその場に座り込み、先ほどまでの忍人のように、草の上にごろりと寝転がった。
「痛みますか？」
「痛え。本っ気で痛え」
あいつこそ手加減しろよー、と、ふざけて転げ回れるのだから、口で言うほどではないのだろうと、柊は思ってそのまま放置した。
「忍人は日に日に強くなりますねぇ。もう私では手も足も出ませんよ」
「あったり前だろ。俺に本気出させるんだぞ」
「何だか、今、無性に君を踏みつけたいのですが」
「わー、やめろ、死ぬ。しかもそこ狙うか人でなし！」
羽張彦は忍人に膝を入れるつもりだったのだが、彼がとっさに避けたために、臑で蹴ってしまったのだ。
後に弁慶の泣き所と呼ばれる場所で、小柄とはいえ１３にもなる子供を吹っ飛ばすほど蹴ってしまったのだから、本当に痛い。
「馬鹿ですねぇ。勝ちを譲っても良かったのに」
「そんなことしたら怒るだろ、あいつ」
「それが面白いんじゃないですか」
「可哀想だろそれ・・・」
友人の悪癖にため息をついて、それから羽張彦は、少しだけ真顔になって、柊を見上げた。
「てゆうかさ、あれ最後にはもう手加減とかそういう場合じゃなかったんだよ」
「おやおや、岩長姫の弟子の中で最も強いと云われる吉備の羽張彦が、１３の子供に、ですか？」
「今んとこ、だろ」
言葉ほど、柊も驚いているようには見えない。
「茶化すなよ。本気で殺られるかと思ったぜ。ふつう、あそこから突っ込めねーだろ。少なくとも俺はできないぜ」
柊はすいと目を眇め、羽張彦はそれを笑って見返した。
「あそこは転がって体勢立て直すだろ。俺だったらそうする。だから対応しきれなくて・・・あいつが避けてくれて良かったぜ」
「既に、君と互角だと？」
「んなワケねえだろ。ありゃ油断してた俺が悪い。・・・でも、そうだな」
羽張彦は、そのまま天を見上げた。
高い高い空を。
「あと何年かしたら、追いつかれるかもなぁ」
俺も頑張らないと。
羽張彦が呟いたところで、風早と忍人が戻ってきた。
ちゃんと、彼のための湿布薬も持っている。
「忍人、良いことを教えてあげましょうか」
額にきつく布を巻いて、打ち身の薬を布に塗っている風早を手伝おうとしていた忍人に、柊が悪い笑みを浮かべながら、ささやいた。
「何だ？」
「おい柊！」
慌てて飛び起きようとした羽張彦を、風早が無情に押さえつける。
「動かないでください。足ですよね」
「そう、先ほどまで、君を蹴った臑が痛いと転げ回っていたのですから」
柊の声が、ほんの少しだけ高くなった。
「それのどこが良いことなんだ？」
「だってほら、痛み分けでしょう？」
「それは、違うと思うが・・・」
真面目な忍人に、羽張彦は勢い込んで頷いた。
「そうだよな、違うよな。・・・そういやお前、腹は平気なのか。跳んでたけど、けっこう入っちまってただろ」
「や、やめろ！めくるな！」
「道臣にちゃんと見てもらいましたよ。・・・って、聞いてませんね君たち」
ぎゃあぎゃあと、かなり本気でじゃれ合っている兄弟弟子たちの様子に、空色の髪の青年は、その琥珀色の瞳をすっと細めた。
それから、弟弟子が完全に剥かれてしまう前にと、騒ぎを止めに入った。
葦の葉の芽吹く頃。
今だ平和な豊葦原の、とある、春の日の出来事だった。