ドアを開けて １
母が、死んだ。
死体のない葬送。
初めて着た黒い服。
・・・・・初めて見た、父の涙。
「・・・・父上」
この家は、いつもしん、と静まり返っている。
もともと必要最低限しか置いていなかった使用人は、葬儀の後、父がほとんど解雇してしまった。
通いのハウスキーパーはもう帰った。そうすると、この広い家はアスランとパトリックの二人だけになる。
暗い廊下を通って、父の部屋の前に立つ。
アスランは今日、己の一大決心を父に告げるつもりだった。
アカデミーへ行く。
そして、ザフトの軍人になる。
自分はずっと、技術者か研究者になるつもりだったけれど。
亡き母も、それを喜んでくれていたけれど。
でも、その母が死んでしまったから。
・・・・殺されて、しまったから。
アスラン一人が戦いに加わったところで、何が変わるわけでもないだろうけれど、他に、何をしたらいいのかわからないから。
恐らく、父は喜んでくれるだろう。
国防委員長になったばかりの、あの人は。
一呼吸してから、ドアの横の操作パネルを叩く。
この家はすべての部屋が電子ロックで、キーナンバーを打ち込むか、中からロックを外してもらわなければ入れない。
月では自分の部屋の鍵さえ持たなかったアスランは、まだ、少し馴染めなかった。
『入れ』
言葉とともに開いたドアの向こうには、椅子に深く沈む父の姿。
それは、いつもの倍も、年をとっているように見えた。
「あの、父上・・・お話があるんです」
父の前に立つとき、アスランはいつも、少しだけ緊張する。
「僕は・・・」
しかし、その一大決心を口にする前に、パトリックが顔を上げた。
「・・・・・レノア？」
「・・・・っ」
怖い、と。
思う間もなく、大きな手に肩を掴まれた。
「レノア・・・お前なのか」
「父上・・・・？」
確かに、アスランは母親によく似ている。それでも、間違えられることなどあるはずがない。
ましてや、自分の父親に。
それでもパトリックはもう一度、息子を妻の名で呼んだ。
「レノア・・・」
立ち上がった父親に、掴まれた肩を強く押される｡
バランスを崩して数歩下がったアスランは、ベッドに膝裏をぶつけてそこに倒れ込んだ。
掴まれた肩が痛い。
「ちちう・・・」
言いかけて、歪んだ男の顔に息を呑む。
これが、父？
呆然としているうちに、シャツを剥がれた。
少し寒い部屋｡
父親の体温が近づいて、しかしそれはアスランに恐怖しか呼び込まなかった。
「やめてください、父上・・・っ」
伸ばした腕は押さえつけられ、耳元に触れた唇に愕然とした。
「レノア」
そんなはずはない、というアスランの思考をよそに、パトリックは息子の首筋を舐め上げた。
それだけのことなのに、ひくりと喉が鳴って息が詰まる。
「っ、父上！」
何とか逃れようと暴れてみるが、未熟な少年の力は、大人の男には及ばない。
逆に強く押さえ込まれ、身動きが取れなくなる。
振り上げた脚を取られ、靴が落ち、スラックスが引き摺り下ろされた。
「父上っ！やだ・・・・やめてくださいっ、とうさん！」
他にできることは、子供のようにわめくことだけだった。
しかしそれも、脱がされたシャツの裾を、口に詰め込まれてできなくなった。
「そんなふうに呼ぶな、レノア」
「んっ、んんっ」
唾液を吸った布地に、喉が塞がれて苦しい。
素肌に触れた父の手が､恐くて気持ち悪くて。
離してもらいたい一心で、一生懸命に手足を動かすと、もっと息ができなって、苦しくなって。
涙に歪んだ視界に､父の姿はもう、見えなくて。
大きく首を振ったとき､下肢に激痛がはしった。
無理やりに､体を引き裂かれる痛み。
喉を突いた悲鳴がこもり、獣の唸りのような音をたてる。
それが気に入らなかったのか､一杯だったはずの口腔に、更にきつくシャツが詰め込まれた。
痛くて､苦しくて、どうにもならなくて。
助けて､と思ったけれど､それを訴える方法も・・・相手も、なくて。
あまりの痛みに意識も失えず、苦しみ抜いてもがく息子の中に、父はためらいもなくその精を放つ。
やっと許された自失の中､最後に耳に残ったのは、荒い男の息遣いに混じった呟き。
「どうして・・・・レノア」
パトリックは､一度としてアスランを見ようとはしなかった。
目が覚めたとき､アスランは自分がどこにいるのかわからなかった。
体､痛い。
そう思って、顔を上げようとすると､本当に痛くてもう一度ベッドに突っ伏した。
ベッド。
誰の？
「・・・・ちちうえ」
呟いた声は潰れていて、それでも口腔を犯していたものがなくなっていることに安堵する。
意識を失う前に何があったかを思い出しても､不思議と感情は動かなかった。
もう一度､ゆっくりと手をついて起き上がる。
痛いけれど、動けないわけじゃない。
視界が暗いのは､自分の目がおかしいのではなくて､部屋が暗いのだとわかった。
だれも、いない。
カーテンを引かれた窓と､机の上のコンソールと。
ドアの側のパネルだけが、ぼんやりと明るかった。
ここから出ないと。
シャツは側に落ちていたけれど､唾液と血にまみれていたので諦めた。
シーツを引き剥がしてなんとか被り､ベッドを下りようとして失敗して、落ちる。
「―――――っ」
打ち付けた肩と腰が痛い。立ち上がれない。
足の間が特に酷く痛んで、足がほとんど動かない。
それでも、打っていない左手を伸ばし､床を掴んで前に進む。
ここから、出ないと。
――――てしまう。
ただ、部屋を横切るだけの距離は遠く､それでもたどり着いたドアの前で､精一杯伸びをして。
触れたドアの操作パネル。しかし、開閉スイッチを押すだけでは開かない。
アスランは、父の部屋のキーナンバーを知らなかった。
父や母の誕生日、家の番地やコールナンバー。
そんな当たり前の数字を入れても当然開くことはなく。
思わず、拳をドアに叩きつけた瞬間、背筋に走った鋭い痛み。
「・・・・・・っ！」
そのまま崩れ落ち、再びは起きられず。
アスランはただ、灰色に見える床を眺めるしかなかった。
ここから、出ない、と。
壊れてしまう、のに。
視界が歪み、ぼやけても、涙があふれていることに気づけずに。
初めて知った絶望は、灰色に歪んだ空虚だった。
アスランがそこから助け出されたのは、３日後のことだった｡
週に一度入る清掃業者が、与えられたマスターキーで、何の苦もなく開いたドアの内側、衰弱しきった少年を見つけた。
家の主に連絡を取るも、ごくあっさりと病院へ搬送するよう指示があっただけ。
パトリック・ザラに、息子を監禁したという意識はなかった。
目を開けると、白い天井。
白い壁、白いベッド。
・・・白いドアに、操作パネル。
反射のように飛び起きて、ベッドから落ちる。
意外と体は動いて、ドアまでは近かった。
パネルを、叩く。
ドアは開かない。
ドアを叩く。
看護師が来て、医師が来て。紫色に腫れ上がった手を、無理やりにつかまえられて。
そこでアスランは、ようやく自分がいるのがあの部屋ではないことに気がついた。
「今、お父上に連絡を取ったから、すぐ来てくれる。もう、大丈夫だよ」
力の抜けた体を抱き支えた医師が、そう言った。
何が大丈夫なのか、アスランにはわからなかったし。
結局、父は来なかった。
そしてまたアスランは、父の部屋の前に立っている。
10日ぶりに、家に帰ってきた父｡
今日、退院してきたアスラン。
パネルを押して。
今度は底に一歩も踏み入れず、用件を切り出す。
「俺は、ザフトに入ります」
はじめから、こうすればよかったのに。
暗い廊下、閉まったドアに背をつけて、アスランは父の言葉を反芻する。
『そうか｡ならば共にレノアの敵を討とう』
パトリックは、今も、アスランの名を呼ばなかった。