誰にも、似ていない
「なんか、すげえ竜也兄に似てきたよなぁ、椎名」
短い休み時間、教室に来たてつしが唐突に言ったので、椎名は今更なんだとため息をついた。
上院小の三人悪の名はもちろん上院中までとどろいて、中学に上がるなり、三人は違うクラスにされた。
実の兄弟よりもよっぽど似ている、と言われた竜也とは、ガクランを着たらもっとそっくりになった椎名は、今は「五組の椎名」だ。
「こーすりゃ、ほとんど一緒だろ」
てつしの腕がひょいと伸びて、椎名の詰め襟を外して開く。
その指先が、喉に触れて、息を飲む。
「うわ一緒だ」
一緒に来たリョーチンが、嬉しそうな声を上げた。
そんなに似ているのか、と、嬉しいような、悔しいような感情を飲み込んで、椎名はいつもどおりの無表情に、ほんの少しの嫌みのある笑みを乗せた。
「竜也兄と一緒にしてもらえるなんて、光栄だね」
「ゼンゲンテッカイだぜ。全然似てねえ」
とたん、げんなりとてつしが声を落とす。
竜也兄はこんなヤなこと言わない。絶対言わない。
えー、そうかな、と首を傾げるリョーチンの頭をぐりぐりと小突き、「それはそれで腹が立つな」とひっぱたいて来ようとする椎名の教科書を避けて、てつしはちらりと、椎名の開いた喉元を見た。
ああ、やっぱり似てねえやと。
なんとなく、そう思った。
下駄箱にラブレター。
呼び出された校舎裏で、告白。
青春だなぁと思いながら、椎名はショートカットの可愛い女の子に頭を下げたてつしが駆けてくるのを待って、一緒に歩きだした。
「硬派だね、てっちゃん」
「だって、好きでもないのに好きだなんて言ってやれねえだろ」
憮然としたてつしの、その純朴さが眩しい。
校舎裏から昇降口まで来ると、昼休みの喧噪が唐突に二人の耳に入ってきた。
「放課後じゃなくて昼休みなのは、彼女がバレー部だからかな」
「よく知ってるな」
「まあね」
靴を履き替えて教室へ戻る。
昼休みはいつも校庭のてつしだったが、今日は時間が半端になってしまったせいだろう。
ほてほてと椎名の教室までついてきた。
「椎名は女、好きだからなー」
なんだかひどい言いようだな、と思ったけれど、間違いではないので肯定しておく。
「だって、女の子は綺麗じゃないか」
絵画や彫刻が好きな椎名は、綺麗なものが好きだ。
絵画や彫刻のように、好きだ。
「えー、そーかー？」
昼休みの教室は、どちらかといえば女子の方が多い。
てつしは、窓際に立って、まるで自分の教室のような態度で見渡した。
「俺にゃ、椎名とか竜也兄のがぜんぜんキレイに見えるけどなぁ」
幸い、ちょっと遠巻きにされてるせいで、周りには聞こえなかったらしい。
よかったね、と椎名は思った。
女は怖いんだぞ、コノヤロウ。
そんな椎名の心配をよそに、てつしは「目が肥えちまってるんだ、きっと」、と付け加えた。
「彼女できないの、竜也兄のせいにするつもりかよ？」
これは後で言いつけなきゃ、と笑うと、ずい、とてつしの大きな瞳が目の前に来て、ドキリとした。
「竜也兄より椎名だっつの。お前の顔見てる方がずっと長ぇんだからよ」
てつしの癖の強い前髪が、椎名の額に触れる。
日の光の匂い。
鮮やかな草原のイメージ。
それが、昏く甘い夢の記憶に移り変わる前に。
「でも椎名、こないだあの子ふってたよな」
ついと顔を引っ込めたてつしは、さすがに声をひそめて教室の隅に目をやった。
幸い、彼女はこちらを見ていない。
椎名は感覚を現実に戻した。
最近、いろいろ見えすぎて困る。
「女好きなのに、なんで？」
ツインテールの彼女は、髪がとても綺麗だった。
しかし椎名は、告白の後も同じ感想しか抱かない程度には、彼女に関心がなかったのだ。
「てっちゃんも言ったじゃないか。好きでもないのに好きだなんて言ってやれないだろ」
「そりゃーそーだ」
笑うてつしから目をそらし、窓の外を見やった椎名は、さっきから無意識に探していた、珍しくてつしの傍らにいないフワフワ頭を見つけた。
「あ、リョーチン」
グラウンドの向こうを、リョーチンが走っている。
その後ろを、運動着姿の先輩が、何人もして追いかけている。
「まだ追われてんのかよ」
とにかく足の速い良次は、入学時から、ずっと陸上部に勧誘・・・というか、冗談抜きで追われているのだ。
良次はグラウンドのフェンスに向かって走っていた。
平面で逃げきると、余計に向こうのやる気に火がつくから、なるべく立体で逃げろ、という椎名の助言を覚えていたらしい。
しかし、リョーチンはフェンスの前で唐突に立ち止まり。
わたわたとあたりを見回した後、まっすぐグラウンドを突っ切り出した。
「あのバカ」
サッカーをする生徒を避けつつ、グラウンドを突っ切るリョーチンは、陸上部の先輩を、ぐいぐい引き離しつつある。
職員室もある校舎から、その様子は丸見えで。
あんまり見せつけると、陸上やらない訳にいかなくなるぞ、と、椎名は綺麗な眉を寄せた。
「しょーがねえな、ったく」
てつしはそう呟くと、がつんと窓枠を蹴って、ひらりとグラウンドに飛び降りた。
ちなみに、この教室は２階だ。
椎名は１階部分に庇があるのを確認し、一度そこに降りてから後を追う。
運動能力では、三人の中で一番劣ると自覚はあるが、そこは工夫すればいいだけの話。
ちゃんと、てっちゃんの後を追えれば問題ない。
「おいおい先輩方、嫌がる後輩追い回して何しよーってんだよ！」
背中で頼もしい声を聞き、半泣きで逃げていたリョーチンは慌てて振り返り。
そうして、瞬時に方向転換して駆け戻った。
「てっちゃん！椎名！」
がばりと飛びついてきたリョーチンを抱き止めて、椎名はてつしの斜め後ろに陣取った。
てつしの背中も、相手の様子も全部見える、いつもの立ち位置だ。
「人聞きの悪いこと言うな！そんな足速いのに、陸上やらないそいつが悪いんだろうが！」
「足速かったら陸上やんなきゃいけねーなんて決まりがどこにある！」
基本、決まりは破る方向のてつしが言っても説得力がない。
が、迫力はあった。
ありすぎだった。
思わずひるんだ先輩たちに、椎名が追い打ちをかけた。
「やっちゃえ、てっちゃん」
弱い者を庇わずにはいられない、その眩しい背中に、椎名はいつものように加勢をする。
「ここで喧嘩して怪我人でも出たら、しばらくは大会出場停止で大団円だ」
「おお、そっか！」
にっかりと笑ったてつしが、小学生の時分に中学生を相手に大暴れした事件は有名だ。
今も拳に包帯を巻いて（妖怪追跡中にうっかり自爆落雷）、頬に青あざを作った（ミッタンとド突き合って当たりどころが悪かった）てつしの様は、まさに百戦錬磨（間違いじゃないよ）。
出場停止の脅しも相まって、先輩方は仕方なさそうに去っていく。
「あー、怖かったぁ」
ほう、と大きく息をついて、リョーチンが半泣きの顔をほころばせた。
「ありがとう、てっちゃん、椎名」
茶色の瞳にのぞき込まれ、椎名はああ、と笑って返す。
リョーチンが相手ならば、動悸もしないし感覚の暴走も起きない。
安心して、笑うことができる。
「何かいんのか、あそこ」
てつしはリョーチンが避けたフェンスを指さした。
「いる」
椎名は端的に答えた。
フェンスの上には、随分形の崩れた人影がある。
「なんでそっち行くんだよ」
わざわざ霊視する必要もない。椎名とリョーチンがいると言えばいるのだと、知っているてつしはリョーチンに聞いた。
「だって、今朝はいなかったよ！」
力説するリョーチンに、椎名がああ、と呟いて校舎を見た。
「今日は、拝が来てる。惹かれて来たんだ」
最近また霊力が強くなって、それをだだ流しの征将が来れば、自然とその辺のモノが寄ってきても仕方がない。
「へえ、珍しいな。顔見に行こうぜ」
てつしは嬉しそうに笑って、適当な窓から校舎に入ろうとした。
そうしたら、先生に見つかってめちゃくちゃ怒られた。
だから、拝ん家には後で遊びに行くことにして、その日の午後は、とりあえず、サボった。
中学生にもなってくると、四畳の部屋に３人は狭い。
座布団の他に、とうとう布団まで持ち込んだのだから当たり前だ。
それでも、ぎゅうぎゅうになって本を読むのは、逆になんだか楽しかった。
リョーチンの足は店の方にはみ出していて、いまにもおやじを蹴りそうだし（でも不思議と蹴らない）、てつしの頭は椎名の膝に乗り上げている。
ツンツンと立ったてつしの髪は、触ってみると以外に柔らかで、その重みとぬくもりが、『幸福』というものだと椎名は思う。
「あ」
読んでいた「現代百物語」から目を離したてつしが、唐突に声を上げた。
大きな瞳と目が合って、椎名はちょっと、それに見とれた。
「この角度、すっげー竜也兄」
その言葉の意味を反芻する。
この角度。それって。
「竜也兄に膝枕してもらってんのか、てっちゃん」
自分が今その状態なことを棚に上げ、呆れたように椎名が言った。
「たまにな」
「してるんだ・・・」
これには、リョーチンも呆れてしまう。
ブラコンなのは知ってるが、さすがにそれはどうなんだ、竜也兄。
憧れの兄貴に、リョーチンも椎名も疑問を持たずにはいられない。
「ていうか、今膝枕じゃん」
今更なことに、リョーチンがやっと突っ込んだ。
「だって狭ぇんだもんよ」
てつしは全く悪びれない。
「まあ、狭いからな」
椎名もそれに従った。
確かに、とリョーチンも思ったが、ふと思いついて膝を戸口から引っ込めて、くるりと向きを変えた。
「もっと狭くしてやる！」
そのまま逆に足を伸ばせば、てつしの足と古い本棚にがつんと当たる。
「うわコノヤロ」
もちろん、てつしもげしげしと蹴り返す。
じゃれ合う二人を他人事のように見ていた椎名は、ふと顔を上げて慌てて言った。
「うわバカ、本棚蹴んな」
「え・・・ってうわっ！」
てつしのひと蹴りがトドメになって、本棚の上に乱雑に積んであった雑誌の類がばさばさと落ちる。
「っ、痛ってー！」
ひひひひ、と、向こうでおやじとガラコが笑っている。
「ちゃんと片づけろよ」
一人、部屋の端に座っていたせいで難を逃れた椎名が、おやじに代わって言った。
「てえか、気がついたんならもっと早く止めろ！」
理不尽なことを言うてつしの頭は、まだ椎名の膝の上だったので、とりあえずバチンとデコピンを飛ばしておいた。
部屋を片づけた後、リョーチンはまるの散歩に行くからと、先に帰って行った。
てつしがリョーチンと一緒に帰らないときは、たいていおやじと話がある時なので、椎名も先に帰ろうと、見ていた画集をぱたんと閉じる。
「帰るよ、てっちゃん」
「おう」
少し広くなったせいで椎名と離れ、今度は布団に懐いていたてつしがそう答え、それからもぞもぞと起き出して、「俺も帰っか」と呟いた。
椎名の考えすぎで、ただ単に本のキリが悪かったので帰らなかっただけらしい。
「じゃあな、おやじ」
「じゃあな」
ばたばたと出ていく二人を見送って、おやじは「ひひひ」と笑った。
「なあ、俺、そんなに竜也兄に似てきたか？」
夕暮れの道をほてほてと歩きながら、椎名はなんとなくてつしに聞いた。
最近、あんまり言われるので、ちょっと竜也兄の顔が見たくなってきた。
「ああ、ソックリだぜ」
「ほとんど一緒なくらい？」
こっくりと頷くてつしにすかさず聞くと、ツンツン頭がへこりと傾いだ。
「んー・・・、一緒ってほどでもない、か」
「そう」
ほっとしたような、なんだか残念なような。
複雑な思いにもごもごしていると、不意に、てつしが足を止め、椎名の瞳をのぞき込んできた。
近い近い近い。
他人の目をしっかりと見るのはてつしの良いところだけれど、椎名にとっては、もの凄く心臓に悪い。
「お前の方が、なんかキレーだな」
しかも、そんなこと、一切の悪気もなく、さらりと。
「・・・嬉しくないよ、てっちゃん」
やっとのことでそう吐き出すと、てつしは悪びれずににかりと笑った。
「だな」
どうやら、冗談だったらしい。
「あんまり、男相手に綺麗とか言わない方がいいぜ。蒼龍あたりが変な誤解する」
まあ、てっちゃんの語彙じゃあしょうがないけど、と、冗談と雑談に紛れさせてしまおうとすると、てつしはあっさりと乗せられて来た。
「変な誤解って何だよ。ま、蒼龍がいつも変なのは認めるけどな」
「それたぶん、俺らのせいだろ。きっと、ほかじゃ常識人で通ってると思うぜ」
ていうか、彼は本当に常識も良識もある大人なのだろう。
だから気に食わないんだけどさ、と思った椎名に、てつしが変に大人ぶって言った。
「俺らってか、椎名だろ。あんま大人を虐めんな」
「てっちゃんがそれ言うなよ」
街じゅうの大人を震え上がらせた、「上院のてつ」が何を言うのやら。
いつもほとんど表情の変わらない椎名も、それにはたまらず、あははと笑った。
その笑顔を、てつしはやっぱりキレイだなぁと思った。
竜也兄がキレイなのと違って。
凄く凄く、胸が痛くなるような感じで、キレイだなぁと思った。
思って。
そうして、気がついた。
「ああ、そっか」
校舎裏で言われた言葉。
ピンク色の便箋に、可愛らしい字で書かれた言葉。
あれって、こういうことなんじゃねえのかな。
思って、そうして椎名の顔を見る。
いつも冷静で、つっ走るてつしの後ろを守ってくれる椎名。
その切れ長の瞳がてつしを映して、それはやっぱりとってもキレイだった。
ずっと見ていたいくらいキレイで、それは、誰にも似ていなかった。
椎名だけ、だった。
「俺、椎名のこと好きなんだわ」
言葉にすると、それはすとんとてつしの胸に落ちた
そうしてなんだか、嬉しくなった。
ああ、これは言いたくなるよなぁと、彼女たちが聞いたなら、違う違うと猛抗議されそうなことを思っていると。
「おい、椎名？」
ぱかりと大きくなった椎名の瞳に、透明な滴がふわりと溢れて。
そうして、ほろりとこぼれて落ちた。
はらはらと、白い頬をこぼれ落ちる涙の滴に、夕日が光って、とても、とてもキレイだった。
それをぐいと拭い去り、それでもしとどに濡れた瞳で、椎名は昔より、少し高い位置にあるてつしの黒い瞳を見上げた。
ずっと、ずっと大好きだった、眩しい瞳をやっと見上げた。
喉が震えた。
舌先がじん、と痺れて、なんだかまともにしゃべれそうになかった。
それでも。
「俺も、好きだよ」
二年越しの想いは、するりと喉を滑り出て。
そうして、二人の間に落ちて、綺麗にキレイに収まった。
「え、じゃあ俺ら両思いじゃん！」
にかりと笑ったてつしの笑顔が、眩しい。
ほろりと笑った椎名の笑顔が、キレイだ。
「じゃあな・・えっと、手でもつなぐか？」
「・・・ああ」
差し出された手のひらに、自分のそれを重ねると、握り返す力とぬくもりに、椎名はまた泣きたくなった。
手なんか、今までいくらだってつないでいる。
それでも、てつしはなんだか、ちょっと慌てた。
「うわ、やべえ、椎名なのになんかテレくせえ」
目を剥いたてつしの頬が、夕日のせいでなく赤い。
「ひどいなてっちゃん」
そう言った椎名の頬も、赤い。
うわぁ、と、てつしは思った。
何が『うわぁ』なのか、よくわからないけど、思った。
「その言い方、蒼龍に似てるぜ」
何かを誤魔化すようにそう唸る。
実際、椎名は蒼龍にも似ている。
「ひどいな、てっちゃん・・・・」
今度は本気で嫌そうな椎名に、てつしは「そう言ってやるなよ」と笑った。
赤い夕日が沈み切って、空が青く深くなりだした。
たそがれ時は、ヒト以外のモノが元気になる時間だ。
イラズの森から、何か得体の知れないモノが舞い上がり、頭の上を通って行った。
「なんかいんのか、椎名」
波長が合ったのか、空を降り仰いでてつしが言う。
「まあ、いつものことだよ」
本当にいつものことなので、何でもないように椎名が言う。
「そっか」
椎名が言うのならそうなのだろうと、てつしは気にせず、できたばかりの恋人の手を引いて歩き出した。
未来が、どうなるかは誰にもわからない。
それでも、この手を取って、この世界を行く。
それは、とてもとても、素敵なことだと。
そう、二人は思った。