adulthood
国連の委託を受けるようになってから、海外へ出張する機会が格段に増えた。
対マキナ特殊機構として、社長に次ぐ地位にあるのは特務室室長である玲二なのだから、そのことに特に不満はない。
時間がもったいないので、飛行機よりもヴァーダントで行きたいと、時々思うことがあるくらいだった。
それはそれで、出入国の手続きが面倒なのでしたことはないが。
しかし今回は、滞在時間に余裕を持って飛行機に乗った。
海の向こうで、一日、休暇を取るためだった。
仕事は、予定よりも早く済んだ。
どうも、相手は必要以上にマキナに興味があるらしく、いろいろと聞かれたので程々の情報を放っておいた。
後で使えるかもしれない。
手帳に経緯を書き込んで、取ったホテルで報告書を作る。
それを送ったついでにメールをチェックし、山下から来ていた異常にテンションの高い一通にため息をついてから、パソコンを閉じて身なりを整えた。
ここからは、プライベートだ。
ホテルから、今、彼の住む家までは、そう遠くはない。
日は落ちたが、まだ明るい。
歩いていくことに、決めた。
彼がアパートなぞに住むわけがないことはわかっていたが、まさか現地工場を住処にしてしまうとは思わなかった。
いや。
父親の車を分解して面白かったという話を聞いたのは、確か中学に入る前だったか。
彼らしいといえば、彼らしい。
「英治」
管理人に彼の所在を訪ね、行き当たったラボ。
名ばかりとはいえ一応社長なので、こんなところでもフリーパスだった。
「玲二！」
連絡はしてあったが、約束は夜だった。
早く来すぎたことを詫びる前に、歩み寄った英治は玲二の後ろへ回り込む。
そうして、いつものように後ろから抱きつこうとした、機械油のついた白衣の腕を、玲二は掴んで止めていた。
すぐ側にあった、英治の顔が寂しげに歪む。
しかし玲二は、掴んだ腕を引き、英治の体を自分の前に持ってくると、英治の体を真正面から抱きしめた。
英治がスキンシップ過剰なのは、小さな頃、忙しい親にかまってもらえなくて、それに飢えていたからだと知っている。
無防備な後ろから、抱きつきたい心理も。
だから玲二は正面から英治に対峙する。
少し、戸惑ったように背中を滑った英治の手が、やがてスーツの生地を掴むようにして抱き返してきた
埃をまとった機械油と、かすかに混じる汗の匂い。
そうだ、子供の頃の彼は、いつも、かすかにこんな匂いがしていた。
そんなことを、思い出した。
「・・・何を、やっているんだ？」
再会の抱擁を解くと、玲二は英治の背後を見やった。
仕事の関係上、作業台の上のそれが何なのか推測はできるのだが、自分は英治のように専門家ではない。
「ああ、新しいエンジンをね。設計だけじゃなく、自分で作ってみたくってさ」
何かをしようと思ったとき、まず思いついたのが、エンジンの制作だったと英治は言った。
彼をここに逃がして良かったと、玲二は心の底から、思った。
「お前は・・・・」
しかし、それを言うことは、何故か躊躇われて。
「本当に、器用だな」
玲二に褒められて、英治は嬉しそうに笑った。
子供の頃に見たそれと。
何ら、変わりない笑顔だった。
「会社はどうだい？」
「ああ、迅雷が生産ラインに乗った。これで少しはコストも落ちる」
シャワーを浴びて着替えた英治は、玲二を行きつけだというバーに連れて行った。
会社のことをまず聞いてきたことに安心して玲二はグラスを傾ける。
強いアルコールが舌を焼く感触が、心地いい。
「納入先は、どうせ自衛隊とJUDAだけだろう。別にコストを気にすることなんかないさ」
「お前のせいで円が急落して鉄鋼も高騰しているんだ。原材料費がただ事じゃない。他の部門にも影響が出ている」
楽観的過ぎる言葉にむっつりと返すと、英治はグラスの縁を指でなぞって、笑った。
「お前、すっかり社長だなァ」
「馬鹿を言え」
そうして、英治は玲二の強い言葉に、作ったような笑顔を消した。
「皆・・・お前の帰りを待っている」
ちらりと見やると、玲二はじっと、自分の手元を見つめていた。
だから、英治はまた、軽く言い返すことができた。
「まさか」
玲二は、口を開きかけ。
そうしてやめて。
一度、グラスに口をつけ。
それから。
「・・・・待ってる」
そう、どこか甘い声で、呟いた。
英治はまず、ベッドで聞くような声だな、と思い。
それからすぐに、それが酷い思い違いだということに、気がついた。
それは。
子供の頃の、彼の声に似ていたのだ。
今、この話題には触れたくない、と英治は思った。
今はただ、どうでもいような話だけして、心地よい時間を過ごしたいと。
それでも口は勝手に開いた。
突き動かす何かが、そこにはあった。
「玲二、お前、あの頃みたいに戻れると思ってるだろ」
「ああ」
即答か、と、英治は可笑しくなる。
顔を上げて、玲二の長い前髪が作る、うつくしい陰影を楽しみながら、言った。
「戻れないよ、玲二」
その陰は、子供の頃に見たものよりも、ずっと深い。
「姉さんの、ことなら」
玲二の声の、幼さは消えない。
「そうじゃない。いや・・・・すまなかった。謝って済むことじゃ、ないけど」
だから英治も、子供の頃のような口調で言う。
「でも、そうじゃない」
矛盾している。
それがどこからか、もう、わからないほどに。
それでも、わかることは。
「僕らはもう、子供じゃない」
英治は、玲二の肌の匂いを知っている。
時折見せる、眼差しの艶を知っている。
ヴァーダントと共にある時の強さを。
他人を信じる、つよさを。
知っている。
それだというのに。
玲二はまるで、英治が手を引いてやらなければならなかった頃のような瞳で、こちらを見た。
今、玲二にこんな目で見てもらえるのは、世界できっと、英治だけ。
それでも英治は強欲なのだ。
この瞳は、もちろん欲しいけれど。
それだけではもう・・・足りないのだ。
「玲二」
重ねようとした言葉を、玲二の頼りない視線が止めた。
そうして。
「お前・・・姉さんのこと、好きだっただろ」
英治は驚いたように顔を上げた。
思ってもみないことを言われた人間の顔だった。
しかし玲二は確信していた。
案の定、下を向いて英治は頷いた。
「・・・うん」
親友の姉に対する、あの時の気持ちに名前をつけられて、英治は少しだけ動揺した。
それでも。
「でもサ、玲二」
それでも、あの時の自分は、初恋にさえ気づかぬほどに。
「でも僕は、お前の方が好きだったんだ」
あのとき、自分は今のように玲二を想っていたわけではない。
それは、今の玲二の言葉で確信した。
自分の初恋は、森次百合子だ。
それでも。
「そんなこともわかんなくなるくらいに、さ」
グラスを口に運ぶ。
焼ける水で、唇を湿らせ。
「僕は、おまえのコトでいっぱいなんだ」
過去形ではなく、言った。
どこかさっぱりとした気持ちで玲二の顔を見ると、じっ、と見返す漆黒の瞳と目があった。
その瞳をはじめて、英治は怖いと思った。
無頓着に見えて、玲二は人の機微に聡い。
そのほか、諸々を関知する能力が、高い。
重要な感覚器を生まれ持たなかった彼が、ヒトと同じように生きていこうとするならば、それらの能力を磨くしかなかったからだ。
あの頃、確かに彼は、自分に対して、その能力を閉じていた。
そうして、再会してからは、故意に見せないようにしてきたのだろう。
それがわかっていて、英治は笑った。
子供の頃、彼と、彼の姉と共に在った時のように、胸が高鳴った。
「とりあえず、友達からでどうだい」
彼に言われた、痛い一言を逆手にとって。
「おまえの、正義の味方にはなれなかったケド」
彼の瞳を、まっすぐ前から見返して。
「他のものには、なれるだろう？」
玲二は今、英治が何を考えているのか、９割がたわかっているのだろう。
バレていれば、それは下心ですらない。
「英治」
玲二の瞳から、表情が消えていた。
しまったかなァと、英治は思った。
自分の言ったとおり、二人とも、もう子供ではない。
玲二がどう変わったのか、どんな大人になったのか、英治は正確には知らない。
知ろうとしなかったからだ。
失敗、したかな。
それでもまあ、諦める気はさらさらないのだけれど。
こんな時でも、玲二の瞳はキレイだなァと、そんなことを思った瞬間、眼鏡の奥の瞳が、ふっと笑った。
満腹の猛獣が微笑んだなら、きっとこんな光を放つだろうという、獰猛さを隠し持った、余裕の、微笑み。
それは確かに、英治が見たことのない。
子供の頃の彼が、しなかった表情。
「私には、友達はお前しかいないんだがな」
「・・・・・は、ははっ！」
英治は笑った。
笑うしかなかった。
笑うしかなかったが、それはなんだか爽快だった。
「僕もだよ」
言うと、持ったままだったグラスを、玲二のそれに軽く当て。
そのまま、ひと息に飲み干した。
喉の奥で何かが焼けていく感覚が、本当に心地よかった。