月夜
夢を、見ているのかと思った。
それほど、その光景はうつくしく、そして、現実感がなくて。
滑らかな背中が、月の青さを映してほのかに輝いていた。
透き通る夏草の色を持つはずの瞳は、底の見えない深さの水淵と化し。
その表が、月を映してとろりと光る。
そうして、青い影の、首筋に散る髪だけが、シンの知る藍と、そう変わらぬ色味を保っていた。
「アス・・・」
振り向いた、そのひとの貌（かお）。
最後まで、呼べずに。
シンはまた、言葉を失った。
無彩の翠が、少年に向けられる。
しかし、それがシンを映すことはなく。
細い顎が、つい、と上向き。
一度、緩く瞬いたそれは、再び、月を映し。
「――――っ！」
何かに突き動かされるように、シンは、彫像のような肩を掴む。
夜気に冷えたそれは、まるで生き物の感触がなくて。
指を押し返す皮膚のやわらかさが、むしろ違和感を感じさせるほどで。
力ずく。うつくしいその身を引き倒す。
カーテンの影、皺になったシーツの陰影。
もう、月光は当たらない。
ふたり。
夜の影に、沈む。
「アスランさん！」
冷たいからだ。
爪を立てる。
月夜の闇に照らされて、流れ落ちた血の色までが、深い青。
ダメだ。
ダメだ。
だって。
この人は。
「アスランさんっ！！」
「シン・・・？」
色を失っていた瞳が、ふうっと戻って、シンを映した。
帰って、来る。
このひと、が。
シンの、恋人が。
還って来る。
「どうしたんだ？」
そうして、肩に食い込んだ指を、腕を掴んで外し。
そうして彼は、先に付いた血を、ぺろり、と、舐めた。
その舌は、あたたかくて。
シンは、唐突に泣きたくなった。
「っ・・・・っく」
額を押し付けた胸は、まだ、冷たい。
それでもやがて、シンの熱を吸って。
冷たい指が髪の間に入り込んで、くしゃくしゃと撫でてくれる。
そうして、涙に濡れた頬を包み込んで、上げさせて。
間近には、翠の瞳。
闇に沈んでもなお、鮮やかな。
「泣くなよ」
誰の、せいだ。
頬に、目蓋に触れる唇。
それに、噛み付くようなキスをして。
それからシンは、やっと色を取り戻した、翠の瞳を覗き込んだ。
「何、見てたんですか」
俺を置いて。
あんたは、何処へ行ってたの？
「・・・・ああ、月を」
アスランはそう言うと、僅かに尖った顎を上げる。
しかし、ベッドに倒された彼からは、月は見えないはずなのだ。
それなのに、アスランの心は、月を映して。
翠の瞳は、月夜の闇に、沈んで。
「随分、遠くへ来てしまったものだと・・・・、そう、思ってな」
このひと、が。
昔、月にいたということは、シンも知っている。
その頃が、このひとの、一番幸せだった頃だということも。
過去を悼む、月夜の瞳。
でも。
今は。
いまは。
シンは、アスランの上に覆い被さると、その瞳に口付けた。
閉じもせず、それを受け止める、僅かに濡れた角膜の艶。
それから、やっと下りてきた目蓋。
乾いた目元。
冷たい頬。
色を失った唇。
そこに、たっぷりと熱を移し。離して。
「そうだよ。あんたは、来たんだ」
喉元。きつく吸って、痕を付ける。
人目を気にするアスランのために、めったに付けない所有の証。
「あんなに遠いところから、やっと、ここに。・・・・・俺のところに、来たんだ」
痩せた肩を、きつく抱く。
闇に慣れた目は、白い肌の上、赤い血の色を、やっと認識しはじめる。
そこに、唇を寄せ。
月夜の色に沈まない、その人の、赤い血を、舐めた。
シンの付けた傷。
シンの付けた痕も、赤い。
「・・・そうか」
そう言ったアスランの声には、あたたかな色が宿っていた。
抱きしめた肌にも、ぬくもりが戻る。
「遠回りして、悪かったな」
「そうですよ」
わざと、子供っぽく言って。
シンはまた、その人の赤い唇に、キスをする。
月は、もう、壁の向こう。
ただ、空しく天井を照らす。
その青を、少年の髪を透かして見ながら、アスランは思った。
遠い遠い旅路の果てに、このぬくもりに、出会えたのなら。
それが、どんなに辛い道であろうとも、悔いることは、ないだろう。
月が、沈む。
闇が、やさしく、ふたりを包んだ。