地球の子
初めて自分で宇宙に出たとき、俺はものすごくドキドキした。
操縦桿を握った手が、震えた。
全方位に散る星の光。
輝く太陽。
迫る月。
そして、美しい、プラント。
宇宙で生まれた俺だから、宇宙が俺の生きる場所だと。
その時はそう、信じていた。
目が覚めると、もう日は高く昇っていた。
上がり始めた気温に、べたつく肌をシーツから引き剥がす。
絶え間なく聞こえる潮騒も、濃すぎて溺れるかと思った大気も、さすがにもう、慣れたはずだった。
それでも、まだ、違和感を感じる自分がいる。
夢を見た、せいだ。
広げて見つめた手のひらには、まだ、操縦桿の感触が残っていた。
どこまでもどこまでも自由で、どこまでもどこまでも不自由で。
孤独で遠い、あの宇宙（そら）は。
窓の外、どうしようもなく青い空を見上げる。
何故、あれは、青いんだろう。
何故、俺はこんなところにいるんだろう・・・？
「アスランさーーーん！まだ寝てんですかアンタ！」
だかだかと、造りの甘い床を蹴る音がして、ノックもなしにドアが開かれる。
飛び込んできた少年は、ぼんやりとしているアスランを見留めると、その赤い目を吊り上げた。
「起きてんじゃないですか・・・さっさと着替えてくださいよ。もうメシ作っちゃいましたからね。来なきゃ、俺食べちゃいますからね！」
そう、一方的にまくし立てて。
シンはばたんとドアを閉め、また、だかだかと床を踏み鳴らして行く。
その音を、見送って。
アスランはまた、空を見上げた。
青い空はいつもどおりで。
少し、目に痛かった。
朝食は、トーストとゆで卵と、サラダというより千切った野菜と、コーヒー。
トーストは丁度いいのに、何故だかゆで卵が焦げている。
「なんでゆで卵が焦げるんだ・・・？」
「仕方ないじゃないですか！なんか茹でてたら水なくなっちゃったんですから！」
「カガリの教えた節約術か？火事起こすくらいなら、多少、水とエネルギーを無駄使いした方がマシだぞ」
「もうしませんよ！」
きゃんきゃんと騒ぎながら、アスランの倍のスピードで、シンは食事を平らげていく。
そのエネルギーはどこから来るのかと、いつも、不思議に思う。
「アンタ今日の予定は？」
「ん・・・素案の直しがまだ上がって来ないんだ。あれが止まると、後が詰まって困る」
「先に図面引いちゃったらどうですか？細かいとこなんて、どうせアンタしかわかんないんでしょ」
「でも、ここまで遅いと元から丸直しの可能性があるから。コンセプトが変わったとか言われたらそれまでだし」
「言われてそれまでにしない！飼い殺されてんだから、多少ワガママ言いましょうよアンタ！」
「・・・・」
わかってはいても、そうハッキリと言われると。
なんだか落ち込んだアスランに、焦げの少ない卵を押しやりつつ、シンはばりばりと野菜を食べた。
「そこ決まんなきゃ、俺の出番ないんですから。ちゃっちゃと催促して次行きましょう、次」
日に焼けたシンの腕が、テーブルの上を行き来して。
皿の中身を、確実に消滅させていく。
卵は、近頃飼いはじめた鶏が産んだものだ。
美味いけど朝うるさい、とシンは言うけれど、朝方は熟睡しているアスランは、うるさいと思ったことがない。
サラダの野菜も、シンが育てたものだ。
アスランの知らない、少し硬い葉野菜。
キャベツも作ってくれと言ったら、調べた挙句にオーブでは気候が合わないから無理だと却下された。
最近増えた農業プラントでは、太陽光や遮光パネル、場合によっては、他のプラントや月の影を利用して、様々な気候を作り出す。
キャベツなら、少し冷涼で乾燥したそれ。
なるほど、オーブでは無理だ。
「卵！アンタの分ですからね！」
「ああ、わかってるよ」
少し茶色くなった殻を、ぱりぱりと剥く。
プラントで食べていたものとは、鶏の種類が違うのだろう。
少し小さい卵は、小さい分以上に、美味しい。
「シロ、可愛そうなことしましたよね。俺、あいつが生んだやつが一番美味しいと思ってたのに」
「区別がついたのか？・・・いや、個体じゃなくて、卵の」
「まあだいたい。・・・アンタも早く起きて見てみてくださいよ！わかるから！」
飼いはじめたばかりで、慣れなくて。
この間、鶏が一羽死んだ。
ほんの十日ほど飼っただけだったのに、もの凄く悲しかった自分が、意外だった。
失うことに、馴れなどないということか。
思えば、生き物を飼ったのは初めてだった。
ペットロボットではなく。
ごちそうさま、と手を合わせて、かたかたと食器を片付ける。
ぬるい水で食器を洗っていると、シンが後ろから抱き付いてきた。
もう、随分上がってきた気温よりも、熱い体温。
「邪魔するな。・・・なあお前、熱ないか？熱いぞ」
「えー？全然元気ですよ。ねえ、今日仕事ないんなら、魚獲りに行きましょうよ」
「自分が食べられないものを獲っても、全然面白くないんだが」
「え、でもこないだトビウオ食えたじゃないですか。なんか治ってないですか？アレルギー」
「治るわけないだろう・・・調子が良かっただけだ」
皿の水を切って、立てかける。
日の当たるキッチンでは、こんなものは１分で乾く。
気温が上がる。
なのに、シンの体温が心地良い。
着替えたばかりのシャツが、少しづつ、汗を吸って肌にまとわりつき。
背中に張りついて、余計にシンの熱を伝えた。
彼は、まるでこの地球（ほし）そのもののように、熱くて眩しくてうっとうしくて。
そうしてアスランには、少し、まだ少し・・・強過ぎる。
初めて地球に降り立ったとき、濃密すぎる空気に、溺れるかと思った。
喘いだ喉が、熱く震えた。
どこまでも続く、青い空。
渦巻く白雲。
注ぐ太陽。
あまりにも濃い、命の気配。
宇宙で生まれた俺だから、宇宙が俺の生きる場所だと。
そう、信じていたのに。
「ああもうわかった！魚獲んなくってもいいから、海行きましょう、海！」
騒ぐ、地球生まれの同族に少し、笑って。
「海なんて・・・目の前だろう」
「だから言ってんでしょう！ほら、出る！！」
引きずり出された空の下。
どこまでも続く光の中に、シンの跳ねた黒髪が揺れる。
繋いだ手の中に、冷たい操縦桿の感触は、もう、なかった。