たとえば
たとえば。
この人に出会わなかったら、俺はどうなってしまっていただろうと思うことが、ある。
シンは、傍らに眠る人をぼんやりと見下ろし、そっと、その頬に指を滑らせた。
眠るアスランは幸福そうだ。
カーテンの隙間から漏れる、わずかな光。
それを弾いて白く浮かび上がる頬は、やさしいラインを描き。
やわらかな寝息をこぼす唇は、微笑むかたちでちいさく開いて、触れたシンの指を、わずかに湿らせる。
ほんの少し前まで、シンはこの唇に思うさま噛み付いて、味わって、・・・・そして恐らく、味あわれて。
今、わずかに毛布を押し上げているこの体を、腕いっぱいに抱きしめて。
抱いて。
抱いて。
抱きしめられ、て。
幸福の中で、果てていた。
何度、突き放しても。
逃げても。
撃ち落しても。
シンに差し伸べられ続けた腕は。
シンを抱き締めてくれて。
シンを暖めてくれて。
そうして今は、毛布の中から投げ出されて、白いシーツの上に、微妙な陰影を刻んでいる。
例えば、この腕がなかったら。
俺は、どうなってしまっていただろう。
頬から指を離し、軽く丸まった指先に触れる。
そっと握る。
離す。
それでも起きないアスランに、遠慮をなくして、指を、絡め合う。
そのあたたかさ。
存在の、確かさ。
撃ち落した時の、操縦桿の感触。
足元から来た衝撃波。
初めて握った手は、操縦桿だこが固くて。
それは、今も変わらなくて。
変わらず、シンに差し伸べられて。
シンを、抱きしめてくれて。
例えば、この人が、いなかったら。
俺は、どうしていただろう。
夜目にも、ほの赤い色味のわかる唇に、そっと、キスをする。
不意打ちのキスに、殴られなくなったのは、ごく最近だ。
だから、眠っている時でも、少し、ドキドキする。
ドキドキして、苦しい。
この人の唇は、こんなに温かいのに。
この人、今は眠ってて、殴ったりしないのに。
この人。
ちゃんと、ここに、いるのに。
例えば、この人が・・・・・
「・・・・・ん」
ドキリ、と、心臓が跳ね上がった。
目の前にあった、睫毛が震える。
そうして。
闇夜に光る、翠の瞳が、現われる。
子供の頃、絵本で見たグリーンアイズ。
その色に魅入られた人間は、魂を、抜かれてしまうという。
「・・・・どうした？、シン」
眠たげな声。
瞬いた瞳。
軽く。
ごく軽く、握り返された、操縦桿だこのある、手。
いつもの。
いつもの。
いつもの、格好いいのにちょっと頼りない、シンの恋人。
ほっと、息をついて。
シンは、彼の上にとさりとその身を倒した。
そうして。
当然のように抱き止めてくれた腕を、体いっぱいに、感じ切った。
ああ、そうだ。
俺の魂は、もうとっくに、この人のもの。
「ねえ、アスランさん」
「ん・・・何だ」
眠気を堪えた低い声。
少しかすれた、そうして、不思議な深みをもった。
それに、何故だか泣きたくなった。
「もし、あんたに出会ってなかったら、俺、一体どうしてただろう・・・・・」
たとえば、人を殺すことを何とも思わない、本物の狂戦士になっていたかもしれない。
たとえば、自分の想いも、何もかもを見失って、心まで、なくしてしまっていたかもしれない。
たとえば、大切なものを。
ぜんぶ、自分で壊してしまっていたかもしれない。
たとえば。
「たとえ、ば・・・・」
涙声が、恥ずかしい。
情けない自分が口惜しい。
しかし、アスランはしばらくの沈黙の後に。
「・・・・わからない。でも」
そう、言葉を切って。
胸の上に乗った頭を、ぐしゃぐしゃと撫でて。
そうして、腹筋に力を込めて、無理な体勢から、少年の頬にキスをした。
「でも、俺はお前に会えて、良かったよ」
視界の端に、紅い頬。
ちゃんと見る前に、ぎゅっと抱きしめられた。
「お前に会えて、良かった」
多分、この人は。
今、ただ、照れた顔をしているだけなのだろうけれど。
「・・・っ、く・・・・・・」
「え、あ、シン・・・・？！」
慌てて跳ねた、アスランの声。
濡れた頬に、触れる指。
覗き込む翠の瞳は、おろおろと、情けない表情をたたえて。
シンを。
シンだけを、見てくれている。
アスラン。
俺。
あんたに会えて、良かった。
良かった・・・・
少年の涙は、夜の闇に溶けて。
恋人の、やさしい腕に溶けて。
溶けて、消えた。