さみだれ
雨は、容赦なく人を憂鬱にする。
しとしとと、自然な、しかし規則正しい音も、一段と濃くなる世界の匂いも、好きなはずなのだけれど。
でも。
眠る恋人の胸に頬をすり寄せ、永泉はちいさく息をつく。
でも。
絶え間ない音は、人を不安にする。一段と強く五感に訴える世界は、恐ろしくてたまらない。
この、ひろい世界に。
やっと手に入れた、安息の場所さえ、奪われてしまいそうで。
「永泉？」
とろりと重い、眠たげな泰明の声。
ごく稀にしか聞くことのできないそれに、永泉は小さな幸福感と共に少し竦む。
「申し訳ありません・・・起こしてしまいましたか・・・？」
「ああ」
泰明は嘘をつかない。そして、優しい。
二人でもぐり込んだ泰明の狩衣から腕を伸ばし、傍らに脱ぎ捨てられていた衣を引き寄せ、夜気に冷えた永泉の体に重ねる。そして、その瞳をのぞき込んだ。
「泣いていたのか？」
言って、頬にくちづけ、気づかなくてすまなかった、と付け加えた。
「泣いてなど・・・おりません。泰明殿が、謝られることなど・・・」
「おまえが悲しいのは私に感染する。涙がなくとも泣いているのはわかる。」
気遣わしげな、そして少し自慢げな泰明の声。
それからやわらかく抱きしめられ、とうとう永泉は涙をこぼしてしまった。
「泣くな」
「はい・・・」
しかし、涙は止まらなくて。
きっと、きっと。
こんな、雨の夜。
このひとは、自分のもとを去ってしまうのだろう。
今はまだ、ひとの心に戸惑う彼だけれど。
雨が降るたび、鮮明になるひろい世界に、きっと彼は行ってしまう。
御簾の奥にうずくまることしか知らない自分を置いて。
「泣くな」
再びの言葉。
それにうなずきながら、涙を止められない嘘つきな自分。
捨てられて、当然だけれど。
ぬくもりが離れていくのは、辛くて。
「泰明、どの・・・」
褥に永泉を残し、単衣をまとって立ち上がった泰明は、
「待っていろ」
とだけ言い残し、部屋を出ていく。
雨が、降る。
掛けられた泰明の衣を握りしめ、永泉は声を殺して泣いた。
ばさり、と乱暴に御簾を払う音がして、雨の匂いが強くなった。
泰明が戻ってきたのかと、顔を上げた永泉の瞳に映ったのは。
紫色の、紫陽花。
「これをやる。だから泣くな」
ぐちゃ。
しとどに濡れたその花は、たしかこの安倍の館の、庭にあったもので。
根ごと引き抜かれたそれは、泰明の部屋を泥で汚し、永泉に掛けられた衣にも染みをつくった。
「やすあきどの・・・」
呆然とする永泉。
「すまぬ。冷たいか」
太い根本を握った指も、袖も。・・・頭からずぶぬれの泰明は、すこししゅんとした風情で半歩下がった。
雨が、世界が。
部屋に、入ってきた。
雨水を含んだ、土の、葉の、花の匂い。
闇の中の緑と紫。
それらを手に、たたずむ泰明。
その生々しさ。
「いらぬか？」
紫陽花の根から、泥水が滴る。
泰明の髪から、雨水が滴る。
泰明が、世界を持って来た。
「いいえ・・・・」
永泉は、その花に手を伸ばした。
雨に負けぬ、硬い花びらに指を添えて。
「ありがとうございます・・・嬉しいです」
「そうか」
はっきりと笑って、泰明。
「ならば、もう泣くな」
「はい」
涙は、止まらないけれど。
それは違う意味を持っていることを、二人とも知っている。
「でも、あの・・・抜いてしまっては、可哀想ですから・・・」
また植えて差し上げましょう、と涙を拭った永泉が言うのを聞いて、泰明はくるりときびすを返した。
「そう言うと思った。植え直してくる」
「お待ちください・・・お手伝いいたします」
あわてて衣をつけ、後を追おうとする永泉。
「いらぬ。おまえは風邪をひく」
「泰明殿こそ、お風邪を召してしまいます。二人でした方が早く済みますから・・・」
「私は風邪などひかぬ。待っていろ」
「でも、私、もう濡れてしまいました」
水の滴る泰明の腰に抱きつき、永泉は笑った。
それを見た泰明は、永泉の濡れた衣を引き剥いで、部屋の奥に放られて、難を逃れた僧衣を掴んで頭から被せた。
「おまえが冷えたら、私は何で暖を取ればよい」
ぱあっと赤くなった永泉が、こくんとうなずくのを確認し、泰明はずかずかと雨の中へ踏み出す。
その後ろ姿。
ああ、と永泉は思った。
部屋の中には、今、雨の匂いが満ちている。
そうして。
「永泉・・・」
雨の匂いのする体を、永泉は精一杯抱きしめた。
再び受け止めた体は冷たくて、しかし熱を奪われる感触さえ愛しくて。
「泰明殿・・・」
自分の世界に、泰明の世界と、そしてひろい世界がつながって。
雨の中から現れた、
恐ろしいほどに美しい世界が、そこにあった。