prayer
その日は、朝からなんとなく、艦内の空気が甘いような気がしていた。
甘くて、沈んだ。
不思議な匂い。
「ほら、シン」
レクルームで会ったルナマリアに、ぽい、と小さな包みを渡されて、シンは軽く首を傾げた。
「何？これ」
「チョコレートよ。いちお、義理」
そう言うと、彼女はレイにも同じような包みを渡していく。
「ねえ、あんたたちザラ隊長知らない？あと渡してないの、隊長だけなんだけど」
そう言って、彼女はシンに渡したものよりも、幾分大きな包みを掲げてみせる。
その時シンは、初めて今日がバレンタインだということに気がついた。
「今日は見ていない」
「そう、ありがと。・・・まあ、用意しておいてアレだけど、あの人も微妙なんだけどねー」
訳知り顔で頷くルナマリア。
しかしシンは、そんなのはもう聞いちゃいなくて。
急に目を輝かせ、レクルームから飛び出して行こうとするシンを呼び止めて、ルナマリアが呆れたように忠告した。
「言っとくけど、あの人からは期待しない方がいいわよ」
「そうだな」
シンとアスランが、そう言う仲だというのは、なんだか皆が、知っている。
「・・・わかってる」
シンだって忘れていたのだ。いろいろ鈍いあの人が、バレンタインなんて覚えているわけがない。
なら、シンからあげるのが、いいのだろうと思うけど。
「あたしがあげたの、横流ししちゃ駄目よ」
「わかってるよ・・・・」
確か、机の中に板チョコくらいならあったかも。
そう思って、部屋へと駆けていくシンを見送って、ルナマリアはきつく目を細めた。
「ねえ、もしかしてシン、気がついてないのかしら」
「そうかも知れんな」
レイに頷かれて。
「うわサイテー。隊長、なんであんなのがいいのかしら」
女としても人間としても、もの凄く、その辺は不思議だ。
「蓼食う虫も好き好き、という言葉を知っているか？ルナマリア」
「どっちかって言うと、シンの方が虫っぽいけどね」
シンも十分悪食だ、と、レイは思ったけれど。
それでも、隊長を敬愛するルナマリアの前だったので、無言で頷くに留めておいた。
机の中の板チョコは、もう、とうに食べてしまっていた。
でも、奥のほうに、ちょっと白っぽくなった一口チョコがひとつ、残っていて。
流石に少しためらったけれど、こういうものは気持ちだろ、と思うことにして、それを握り締め、シンはアスランを探しはじめる。
格納庫、部屋、ブリッジ、艦長室（怒られた）。
これだけ探していなければ、後はもうここしかないだろうと、そう思って甲板に上がると、案の定その人は、手すりのないその縁に、一人きりで立っていた。
藍色の髪が、海の風になびいて。
赤い軍服が、はたりはたりとはためいて。
いつも綺麗に伸びた背中が、今日は少し、丸くなっていて。
なのに、その姿は。
何か、とても敬虔なものに見えて。
シンはその場で立ちつくし、声をかけることができなかった。
プラント生まれのコーディネイターは、基本的に、祈る神を持たない。
それは、自身の手で宇宙に上がり、命の情報を、思うままにし。
運命さえも、己の手で変えるという、自信の現れ。
オーブ生まれのシンでさえ、年に何度か、ハウメアの神殿くらいには行ったけれど、そこに信仰を感じたことはない。
でも、今。
甲板の縁に立ったその人は。
何かを、何かに。
一心に、祈っているようだった。
シンはそのまま、いつもよりも小さく、そしてうつくしく見える背中を、ずっと、見ていたのだけれど。
日が高く上がっても、目が痛くなるばかりで気温は上がらず。
風だけが、強くなって。
後から来た自分さえ、体が芯から冷えていることに、気がついて。
「・・・アスラン、さん」
綺麗な氷を割るような。
真白の紙を汚すような。
そんな気持ちで、声を、かけた。
とたん、振り向いた翠の瞳。
どこまでもどこまでも透明な。
「なんだ？」
声までもが、透き通るような。
何かに突き動かされるように、シンは夢中で駆け寄って、その綺麗な人の腕を掴む。
凍るような海風を吸って、軍服の生地が、指を刺すほど冷たい。
自分を見下ろす翠の瞳が、透明すぎて酷く痛い。
「シン？」
やわらかなはずの声は、触れれば壊れそうで。
シンは、必死に言葉を探した。
この人を、取り戻す言葉を。
「何を・・・何を、祈ってたんですか？」
「ああ」
その人は、酷く、儚く笑い。
「母の・・・それから、亡くなった人たちの、安らかな眠りを」
バレンタイン。
血の、バレンタイン。
俺は馬鹿だ。
そんなこと、全然思い至らなくて。
「何に？」
「・・・・さあな」
プラント生まれの、生粋のコーディネイターは、そう言ってまた、透明に笑う。
袖を掴んだ、指が冷たい。
「寒く、ないですか？」
「・・・そうだな。もう、入ろうか」
シンの背中を緩く押し、開け放したままのハッチに向かう、その人の体温が感じられなくて。
こんなに近いのに、そんなこと、初めてで。
シンは、ハッチに行き着く前に、その人をきつく抱きしめた。
「シン？」
手の中で、かさりと何かが音を立てる。
握り締めたままの、小さなチョコレートを思い出す。
「そうだ、これ、あなたにって思って」
少し、体を離して。
冷えて固まった指を、そっと、開く。
「お前これ、溶けてるじゃないか」
「あ・・・すいません」
指は、こんなに冷たいのに。
手の中のチョコは、わずかな体温に溶けていた。
「いや、いいよ。ありがとう」
アスランはそう言うと、小さな包みをかさりと開き、溶けかけてくっついたそれを、ぺろりと舐め取ってしまった。
色を失った口の端に付いた、茶色いチョコレート。
自分が、この綺麗な人を汚したようで。
ここに、引き戻したようで。
シンは、やっと息をついた。
そのまま少し、背伸びをして。
アスランも、それに、応えてくれて。
キスは、かすかにチョコの味がして。
でも、深くなるごとに、薄くなって。
掴んだ制服が、ほんの少しだけあたたかくなる。
冷えた体は、うっすらと熱を帯びる。
ひょう、と、一際強く風が吹いて、名残惜しく思いながらもシンは唇を離した。
見上げた翠の瞳は、透明さを失ってはいなかったけれど、それでもその色は、シンの見慣れた、恋人のものだった。
「お礼、くださいね」
だから、シンは甘えた声を出して。
「ああ、じゃあ、これ」
アスランは、ポケットから飴の包みをひとつ、取り出した。
シンも見覚えのある、ルナマリアが好んで人に配っている飴だ。
「ルナマリアにもらったんだ」
案の定、そう言うアスランに、シンはふくれて。
「来月ください。今じゃ駄目です」
「・・・わかった」
そう頷いたアスランの手を、ぐいぐいと引いて艦内に戻る。
一度だけ振り返った甲板は、もう、ただ明るいだけだった。
自分に引かれるその人は、いつもの、大好きな恋人だった。
「・・・・ない」
「なんだって？」
聞こえなかった言葉に、アスランは首を傾げ。
「なんでもないです。あの、インパルスのセンサーバランス、ちょっと見て欲しいんですけど」
「わかった。・・・おい、引っ張るなよ」
アスランを格納庫へ引きずりながら、シンは、もう一度、声に出さずに呟いた。
あんたたちに、この人はやらない。
母親だろうとなんだろうと、関係なんかあるもんか。
この人は、あんな、キレイなところなんかじゃなくて。
俺の隣に、いるべきなんだから。