ある日、無限城を訪れた花月が言った。

「マクベス、しばらく十兵衛借りたいんだけど」

いつも通り、パソコンの前で、マクベスは答えた。

「えー、高いよ？」

「まけてくれないかな」

「じゃあ、カラダで後払い可。頼みたい仕事があるんだ」

「よし、買った」

「・・・・・」

目の前で、なんだか勝手に借りられたり買われたりしてしまったりした十兵衛は、そのまま花月に腕を引かれて、無限城を引きずり出されてしまったのだった。

何の説明もないまま、羽田に連れて行かれた十兵衛は、初めての飛行機に怯えてみたり、飛針が金属探知機にかかりまくってみたりしながら、やっとシートに座らされたところで、行き先を知らされた。

しかも機内アナウンスでだ。

「那覇空港？」

「うん」

それだけ言って､花月は「昨日遅かったから」と言って眠ってしまったので､十兵衛は何も聞けないまま､肩に預けられた花月の頭越しに、雲の群れを見て時間を潰した。

ひどく、現実味のない光景だった。

海も空も、どうしようもないほど青かった。

やはり何の説明もないままに、花月の運転するレンタカーに乗せられ､どこともわからぬ海岸に下ろされた十兵衛は、いっそ恐ろしいほどの広い空間と、自然の匂いに圧倒された。

ここは、異界だ。

十兵衛の育った家も自然は多かったが､何かがとても、根本から違う。

古来､里人にとって山と海は異界だったという。

ましてや無限城暮らしの長い十兵衛に、海はまさに異界だった。

「これ、君に見せたかったんだけど、見えないんだよね。ごめん」

花月はそう言って、力なく笑う。

海風が花月の髪を巻き上げ､十兵衛の頬にかかった。

「前にね､クライアントに連れて来てもらったんだ。十兵衛、今まで海､見たことあったかい？」

「ああ。一応な」

まだ、十兵衛に家があった頃、黒針の伝授で富士に行った。その帰りに、連れて行ってもらったのだ。

山育ちの少年は、どこまでも続く水平線に、純粋に感動したことを十兵衛は憶えている。

しかし幼い記憶はひどく遠く、あの海とこの海もまた、まったく違って見えた。

「僕はね、前にここに来る途中、飛行機の中から初めて見たんだ」

花月の声は、波の音に紛れ、風の音に紛れ、まるで自然の歌の如く。

「TV見てるみたいで、あんまり実感がなくてさ、こうやって海岸に連れてこられて・・・すごく、びっくりしたよ」

波打ち際に近づき、遠く、青の交わる線を眺める。

「・・・・ごめん、十兵衛は見えないのに」

細い後ろ姿を、風に弄られた髪が覆う。

「あのとき、すごく・・・十兵衛に見せたいって・・・。十兵衛と見たいって、思ったんだ」

振り返った花月と、空と海のうつくしさ。

「わかるぞ、花月」

十兵衛は、花月に歩み寄り、風に揺れる髪をかいくぐるようにして、その肩を抱き寄せた。

「風の匂いも、空の広さもも、何もかもが違うな、ここは」

何と違う、とは、十兵衛は言わなかった。

「うん・・・・・」

頷いた花月は、そのまま十兵衛の肩に体を預ける。

「違うのは、怖いね。どうしたらいいかわからなくなる」

十兵衛の手を取り、それに頬を寄せて。

「世界は、広いね」

そう呟いた花月は、本当にちいさく見えた。

広い世界の中の、ちいさな花月。

まったく違う世界の、まったく違う風景の中の。

その中で生きる、そういう可能性もあるのだと。

そう、花月は言っているのだと、十兵衛にはわかった。

それが、怖いのだと。

「・・・・お前はうつくしいな、花月」

十兵衛は、抱き寄せた花月の髪にそっと唇を埋めた。

花月の、いい匂いがする。

潮風とは違う、甘い香り。

「お前が、俺の世界だ。どこにいても、何があっても、それは変わらん」

日溜りの中であろうと、裏新宿のスラムであろうと。

この、青い異界であろうとも。

異界へ渡る可能性を知りながら、血にまみれた自分の世界で、斃れてもなお戦うであろう花月を。

十兵衛は。

「愛している」

そう言うと、顔の見えない花月は、声だけで笑って見せた。

「ははっ・・・・言うと、思った・・・・・」

それから、顔を上げて。

「言ってくれると思ったよ、十兵衛」

知っているかい？君がいる世界が、僕のいる世界なんだよ？

キスの合い間のささやきは、十兵衛の胸に染みた。

遠い記憶の感動などよりも、ずっと。

「行こうか、ホテルをとってあるんだ。ビーチ付いてるから、明日は一緒に泳ごう」

そう言って歩き出した花月に、十兵衛は心配そうに声をかける。

「ここは日差しが強い。お前はあまり日光に免疫がないのだから・・・・」

「わかってるよ。じゃあ、日焼け止め塗ってくれるかい？」

そう言って笑う花月は、裏新宿で見たような、いつもの花月だった。

青い空の下でも、変わらず。

「今度、海外も行こう？いい偽造屋を知っているから、パスポート偽造ってもらってさ」

「ああ。・・・・・待て、もしかしてお前、免許も偽造か？」

「あたり前だろう。住所とか本籍とか、僕らきっともうないよ」

「・・・・オレが運転する」

「その目で運転してたら捕まるよ。だいたい十兵衛、君、運転できる？」

「ム・・・」

はははっ、と花月が笑う。

つられて、十兵衛も、少し笑う。

日が傾きかけ、青い世界が少しづつとけていく。

手をつないだ二人が、自分の世界へ戻るのは、もうしばらく後のことだった。

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