Luna
波間に、月の光が落ちていた。
同じように、多くの命が、あの波間に消えた。
落ちていった、守るべき国の破片を思い、アスランは深く、瞑目する。
膝を抱え、そこに額を埋める。
自分の機も、落ちた。
相手に殺す気がなかったことと、それをするだけの力があったせいで、自分は今、ここにいるけれど。
自分の、あの赤い機体は、修復不能なまでに、切り捨てられ、壊された。
フリーダムに。
あの、キラに。
文字通り、切り捨てられた。
『カガリは今！泣いているんだ』
今。
いま・・・
自分が、どうするべきだったのか。
どうする、べきなのか。
間違っていないと思っていた。
迷っても、苦しくても。
これしか、道はないと。
守るには。
大事なものを守るには、これしかないと。
思って、いたのに。
キラと、再び刃を交えた。
キラに、切り捨てられた。
オーブと戦った。
カガリが・・・泣いていた。
わずかに顔を上げ、いつのまにか、握り締めていた拳を開く。
MSを操縦する手のひらだ。
引き金を引く、指だ。
この手を使って。
守らなければ、いけないものが、あるはずなのに。
それは、変わらないはずなのに。
けれど、そこにはもう、アスランのいる場所ではない。
それでも、守らなければならない。
償わなくては、ならない。
でも、どうやって？
拳を握り、空を仰ぐ。
月が、見えた。
あたたかい場所。
あそこに、還りたい。
わかっている。
もう、あそこには何もない。
あたたかくはない。
キラはいない。
でも。
もう、アスランには何もないから。
あの思い出の他に、何もないから。
握り締めた拳の中、そこには、もうなにもないから。
なにも、ないから。
だから。
がたん、と、唐突に、ひどく硬質な音がした。
波音に慣れた耳には、その音はひどく異質に聞こえ。
しかしアスランは、振り返らずに、月を、見ていた。
後部デッキへ出るハッチを開け、シンは夜の海風を思い切り吸い込んだ。
今日の戦闘は、激しかったけれど思い切り戦えた。
最中はひどく腹が立ったりもしたけれど、みんなまた褒めてくれたし。
気分がいい。
月がキレイで、波は穏やかだ。
ここを、思い切り駆け回ったことを思い出す。
ルナの怪我は心配だし、ステラの容態も良くはないけれど。
今だけ、それを忘れて。
ひとつ、伸びをして。
あたりを見回して、そしてシンは、先客の存在に気が付いた。
デッキの縁で、膝を抱えるようにして。
夜色の髪が、夜に溶けて。
アスラン・ザラ。
いつも偉そうな、先の大戦の英雄。
でも、たいしたことないじゃないか。
シンは思った。
今日の撃墜数も、自分の方が上だ。
何より、空母や敵の旗艦をやったのも俺だ。
その間、こいつは割り込んできたMSの相手をして、バラバラにされただけだった。
いい気味だ。
「隊長！」
何か、言ってやろうと声を掛けると、どこかぼうっと見上げられた。
それから、何事もなかったかのようにまた空を見上げたそいつに、シンはひどく腹が立った。
「何やってんですか、こんなとこで」
「いや・・・・」
答えとも言えない声だけが返り、視線は相変わらず宙を向いたまま。
「今日、アンタ酷かったですね」
「ああ」
「なんですかアレ、大事な機体バラバラにしちゃって」
「ああ」
「なんっの役にも、立ってなかったですよね」
「ああ」
「あんた、ここにいる必要、ないですよね」
「・・・・ああ」
最後の答えだけ、かすかに感情がこもっていたような気がした。
それでも、ほぼ無視に近いアスランの反応に、シンの怒りが爆発した。
「何なんだよ、アンタはっ！」
艦長やレイはよくやったと言ってくれた。
ルナは悔しいと言っていた。
みんな褒めてくれた。
アタリマエだ、この艦を守ったの俺なんだから。
なのに、なんだよこいつは。
悔しそうなそぶりを見せるでもなく、シンを褒めるでもなく。
・・・・前のように、怒るでもなく。
ぼんやりと、空なんか見上げて。
「おい！」
それは、弾みだったかもしれない。
特に、意味のある行動ではなかった。
しかしシンは足を上げて。
その人を、蹴り飛ばしていた。
何か、衝撃があった気がした。
さくら色の何かが、ちかちかと目の前を舞って消えた。
首を上げていないと、見えなかった月が真正面に見えて。
ああ、さくらだとアスランは思った。
さくらだ・・・
やってしまってから、しまったと思った。
いくらなんでも、やり過ぎたと。
避けようともしなかったそいつは、蹴られたままにデッキに転がり、起き上がってこない。
「あ・・・・」
そうだ、今日撃墜されたんだっけ。
怪我の話とか聞いてなかったけど、シンが聞いていないだけだったのかもしれない。
「アスラン、さ・・・」
膝を付き、覗き込んだ、翠の瞳。
月明かりから、陰になって、暗い。
「シン」
慌てるシンに、酷く静かな声がかかった。
なんだ、大丈夫じゃないかと安心する。
「なんだよ」
「月が、見えない」
彼は、覗き込んだシンなど見ずに、ただ、それだけを言った。
少年は一瞬絶句する。
何だ、それ。
なんだよ。
「月なんかいいだろ。俺を見ろよ！」
迸った声は、ひどく割れていた。
「よく、ない・・・・」
どこか頼りない手のひらが伸びて、シンの頭をどかそうと動く。
それを、つかまえて。
「いいんだよ！なんでアンタ・・・・」
こいつ、は。
シンとは全く違うものを見ている。
だからシンを褒めない。
シンを妬まない。
シンを、見ない。
シンを見ずに、だだ月を。
意地でもどくものかと瞳に力を込めると、宙を向いたままだった瞳がわずかにシンに反応した。
「・・・なんで、お前」
「知るかよ！」
「いいから、どいてくれ。月が・・・」
「だから見んなっつってんだろ！」
だん！と、つかまえた腕を、デッキに叩きつけた。
骨のきしみが手のひらに伝わる。
それでも、アスランはシンを見ようとはしない。
首を捩り、少年の髪の向こうに透ける、月を見たいと、足掻く。
何としても、自分の方を向かせなければとシンは思った。
理屈ではない。
理由などない。
ただ、そうしなければと。
さっき、こいつを蹴り飛ばしたのと、同じ衝動で。
シンは、アスランの体を押さえつけて。
犯した。
さっき見えた、さくらが見たい。
きれいな色、きれいな。
何ももたない手のひらを伸ばす。
でも、伸ばしても、何もつかめない。
「・・・・んで」
伸ばした腕を、つかまえられる。
きつく、きつく。
何もない手のひらに、少年の、手。
月が見えない。
「ど、けよ。シン」
見えるのは、赤い瞳。
「なんで、アンタはっ！」
ぼろぼろと、涙をこぼす。
「・・・なんでお前、泣いてるんだ」
「なんでアンタはこっち見ないんですかっ」
かみ合わない。
月が、見えない。
「だって、俺は・・・・」
「ここにも、必要ないんだろう？」
ここにも。
どこにも。
なら。
月、が。
見たい。
切り捨てられない、俺がいた場所。
俺が、必要だった場所。
俺が、何かできた場所。
月が。
ぎゅうっと、痛いほどの力で、手を握られた。
痛い。
ああ、そういえば、あちこち痛いな。
なんでだろう。
「ここにいればいいだろ！」
「ここには、いらないんだろう？」
「いいからいろよ！」
「何、言ってるんだよ」
何を言ってるかなんて、自分でもわからない。
ただ、彼が自分を見ないのが腹立たしくて。
ぐしゃぐしゃに乱れた、赤い軍服。
飛び散った体液には、赤い血が混じって。
こんなにしても、まだシンを見ないこいつに、腹が立って仕方がなくて。
自分を見ないのなら、いっそ、潰してやろうかと、手のひらできつく、開いたままの両目を押さえつけた。
これなら、月だって見えない。
見えない。
「し、ん」
なんにも見えない。
守るべきものも、守りたいものも。
キラが行こうとしている道も、自分の行くべき道も。
月も、赤い瞳も、見えない。
俺には、見えない。
じゃあ、今俺の目を塞いでいるお前には？
「お前は、守るものがあるか？」
「あたり前じゃないですか。この艦守ったの誰だと思ってるんですか」
「いる場所は、あるか」
「ここでしょう。何考えてんですか」
「そうか」
やった！
歓喜が、シンを包む。
アスランが、自分を見た。
思わず、彼の目を塞いだ手のひらをどかして。
翠の瞳を、覗き込んで。
息を飲む。
「よかった」
ふわ、と。
微笑った瞳は、やっぱりシンを見ていなくて。
それでも、笑んだまま、シンの方を向いていて。
彼には、いる場所があるんだ。
よかった。
月は、見えないけれど。
アスランにはもう、何も見えないけれど。
さくら色が、瞳の奥で、ほんの少しだけ、散った気がした。
天を、大きく月が巡る。
アスランからは、もう見えないけれど。
なんにもない手を、少年の手のひらが。
ただ、きつくつかまえていた。